トルストイ『青年時代』

心から崇拝する親友のドミートリィ(わたしはときどき彼のことをすばらしいミーチャと、ひとり口のなかでつぶやくのだった)と、たがいに論じあった高潔な思想は、まだいまのところ、わたしの理性を喜ばすだけで、感情を動かすまでにいたらなかった。しかし、こうした思想が真の道徳的発見として、清新な力をもってわたしの頭脳をみたすときがきた。わたしはどれだけ貴重な時間をむなしく失ったかと思うと、われながらぎょっとした。そして、すぐその場から、永久に変わるまいという確固たる意図をもって、こうした思想を実行に移そうと考えた。
つまり、わたしはこのときを青年時代のはじめと見なすわけだ。

リューボチカは食事のあとで、わたしに一枚の紙を見せたが、それには彼女の犯した罪がすっかり書きとめてあった。わたしは、たいへん結構だけれど、それより自分の心にすべての罪を書きこんだほうがいい、「そんなことはみんな見当ちがいだ」と言ってやったものだ。
「どうして見当ちがいなの?」とリューボチカがたずねた。
「まあ、これでいいさ。おまえなんかに僕の気持ちはわかりゃしないよ」と言って、わたしは二階の部屋へ帰った。サン・ジェロームには、勉強に行くのだと言ったけれど、じつは懺悔の式までに残っている一時間半のあいだに、自分の生活を規定するするいっさいの義務と仕事を表につくり、生存の目的と規律を紙にしるして、今後それから一歩も踏みはずさないように行動しよう、と考えたのだ。

わたしは六枚の紙をとって、一冊の手帳にとじ合わせ、その表紙に、「生活規律」と書いたが、この四字があまりゆがんで、不ぞろいになったので、書きなおしたものかどうかと、長いこと考えた。そして、破りすてた表と、このぶざまな標題を見ながら、いつまでも煩悶していた。自分の心にあるときは、なにもかも美しく明瞭なのに、いったん紙に移すと、どうしてこんなに醜くなるのか、また一般の生活でも同様に、なにか自分の考えていることを生活に応用しようとすると、なぜこのような結果になってしまうのだろう?……

美的な愛は感情そのものと、その表現の美にたいする愛ということになる。かような愛をする人にとって、愛の対象はこころよい感じを刺激するかぎりにおいて、好もしく思われるのだ。彼らはこの感情の意識と表現を享楽している。美的な愛で愛する人々は、相互性というものをほとんど意に介しない。そんなものは美と快感に、なんの影響をもあたえないと考えているわけだ。彼らはしばしば、愛の対象を変更する。なぜなら、彼らのおもな目的は、愛の快感がたえず刺激されていることにあるからだ。この快感を維持しようとして、彼らはたえずきわめて優美な表現によって、単に愛の対象ばかりか、そのような愛になんの興味も関係も無い人たちにまで、自己の愛を吹聴してまわる。ロシアの国において、美的な愛をする一定の階級の人々は、自分の愛を会う人ごとにしゃべり散らすばかりでなく。かならずそれをフランス語で話す。それは滑稽でもあり、奇怪な話でもあるが、もしフランス語で愛を語ることを禁じたら、親友なり、夫なり、子供なりにたいする愛が、たちどころに消滅してしまいそうな人々(ことに婦人)が、一定の社会にきわめておびただしく存在していたし、また現に存在していることを、わたしは信じて疑わないものだ。

第二類の愛――自己犠牲的な愛――は、愛の対象のために自己を犠牲にする、その経過にたいする愛をさすもので、こういう犠牲のために愛の対象物が迷惑しようと喜ぼうと、そんなことは頓着しないのである。「自分の心服の情を世間ぜんたいの人と、彼もしくは彼女に証明するためには、たとえいかなる不快事でもけっして否みはしない」これがこの種の愛の公式なのだ。このような愛をする人々は、けっして相手から同じ愛をもって報いられようなどとは、けっしてどうあろうとも信じようとしない(なぜなら、自分を理解してくれない人のためにおのれを犠牲にするほうが、一段と立派だからだ)。彼らはつねに病的だけれども、そのこともやはり犠牲の価値を高めてくれる。また彼らはおおむね気持ちが変わりやすくない。なぜなら、自分が愛の対象にささげた犠牲の功績を、あだにしたくないからだ。

第三類の実行的な愛は―ー愛する人のあらゆる要求、あらゆる希望、ないし気まぐればかりでなく、すすんではその悪徳さえも、満足させようと努力するものだ。こういうふうな愛しかたをする人々は、いつも生涯かわらぬ愛の保持者である、なぜといって、彼らは愛すれば愛するほど、いよいよ深く愛の対象物を理解するので、したがって、彼らにとっては愛すること、すなわち対象物の希望を満足させることが、容易になってくるからなのだ。

「やっぱり雨がやまないわ」と彼女は言った。
すると不意に、わたしは不思議な感情を経験した。いま自分の経験しているが、もうまえにいちどあったことの反復にすぎない――というような気がしてきたのだ。そのときもやはりいまと同じように小雨が降って、夕日が白樺の陰に沈みかかっていたっけ。わたしは彼女を見つめているし、彼女は本を読んでいた。わたしの磁力がかよって、彼女はわたしのほうを振りかえった。そればかりか、そのときも、この通りのことがまえに一度あったような気持ちがしたほどなのだ。<<>>
……こんなおそろしくこみいった嘘を言ってしまうと、わたしはまごついて、顔をまっ赤にした。みんなはそのようすを見て、わたしが嘘をついたのをきっと見抜いたに相違ない。ちょうどこのとき、わたしに茶わんを渡していたヴァーレンカも、わたしが話しをしてるあいだ、じっとこちらを見つめていたソフィア・イヴァーノヴナも、二人ともわたしから顔をそむけて、特殊な表情をしながら、ほかのことを話しだした。それは、あとで合点したことだが、ごく年のわかい人が面と向かって、見え透いた嘘を言い出したとき、善良な人々がしばしば浮かべる表情で、言葉になおせば、「わたしたちはあの人が嘘をついているのを、ちゃんと承知しています。なんだってあんなことをするのだろう、可哀そうに!……」という意味なのだった。

茶のあとで雨がやんで、夕焼け空が静かに明るく澄んだので、公爵夫人はしたのほうの庭へ散歩に出て、自分の好きな場所で景色をながめようと言いだした。わたしはつねに「独創的であれ」という原則に従う必要があったし、それに、わたしや公爵夫人のような賢い人間は、月並みな礼儀を超越すべきだと信じたので、漫然とあてなしに散歩するのは大嫌いだが、もし散歩するなら一人きりがいい、と答えた。この言い草が乱暴だなんていうことは、まるで考えなかった。わたしはその時分、俗な、から世辞以上に恥ずべきものはこの世にないが、それと同様に、ある種の無作法な告白ほど独創的で、気のきいたものはないと思いこんでいたのだった。が、それにもかかわらず、わたしは自分の答えに満足しきって、みんなと一緒に散歩に出かけた。

わたしたちは、自然と芸術を混同するのになれているので、今まで一度も絵で見たことのないような自然現象が、しばしば不自然に感じられ、自然そのものが自然らしくないような気がするし、またその反対に、あまりしばしば絵画に反覆しされた自然現象は、われわれの目に平凡無味なものとして映ったりするものだ。また、じっさいに見受けられるある種の風景なども、あまりに一つの観念、一つの感情に結びつきすぎていると、妙に気障に感じられるのだ。

わたしは彼女がしゃくにさわってきた。が、それなのに、不思議と、彼女のもたれている色のさめたうす黒い橋の欄干、暗い池の上にのぞき込んで枝をたらしている白樺、しだれた枝と握手しようとしているような水中の影、沼の匂い、額で蚊をたたきつぶした感覚、そして彼女の注意ぶかいまなざしと荘重なポーズ――といったようなものが、その後よくまるで思いがけないようなときに、不意にまざまざとわたしの想像に浮かんできたものだ。

こうして、わたしたちは二ばん鶏の鳴くまでしゃべっていた。やがて、青ざめた暁の光が、早くも窓からさしのぞいたとき、ドミートリィは自分の寝床へ移って、ろうそくを消した。
「さあ、いよいよ寝るんだ」と彼は言った。
「ああ」とわたしは答えた。「だが、たったひとこと」
「なに?」
「この世に生きてゆくのは愉快だね!」とわたしは言った。
「この世に生きてゆくのは愉快だね」と彼は答えたが、それは暗闇のなかでも彼の愉快そうな優しい目の表情と、子供らしいほほえみが、まざまざと見えるような声だった。

夜食のあと――ときにだれかと、夜の庭を散歩したあと(わたしは、一人で暗い並木道を歩くのが、こわかった)――一人でテラスの床へ寝に行った。それは、いく百万の蚊に血をむさぼられるにもかかわらず、わたしに非常な満足を与えてくれた。

――こういったなにもかもが、わたしの心に、不思議な意味をおびてくるのだった。それは、並々ならぬ美と、一種の尽きせぬ幸福を意味していた。わたしの心の目の前に、彼女があらわれてくるのだ。長い黒髪、高く持ちあがった胸、いつも悲しげな美しい顔、あらわな両腕、情欲にみちた抱擁――彼女はわたしを愛していた。わたしは、彼女の愛の一刹那のためには、一生を犠牲にするのもいとわなかった。

アヴドーチャ・ヴァシリーエヴナはその反対に、ほとんどいつも、なに一つしようとしなかった。いろんな道具類や、草花の世話が嫌いだったばかりか、自分の身なりさえあまりかまわなさすぎるくらいだった。で、いつも客が来ると、逃げだして着替えをするのだった。けれど、着替えを済まして、部屋へ帰ってきた彼女は、並はずれて美しかった。ただし、すべてのずぬけて美しい顔に共通の欠点であるが、目もとや笑顔の表情は冷たくて、単調だった。彼女の厳粛端正な美しい顔と、すらりとした姿は、たえずこう言ってるように思われた。「さあ、どうぞ、わたしをご覧になってもかまいませんよ」

客と話をしているとき、彼女は自分のおもな魅力――落ちついた、分別のある、単純な趣を失うように思われた。いまでも憶えているが、彼女が兄のヴォロージャと、芝居や天気の話をはじめたとき、わたしは不思議なショックを感じた。ヴォロージャがこの世のなによりも月並を避け、かつ軽蔑しているのは、わたしもよく知りぬいているし、ヴァーレンカもやはり、わざとらしく面白そうな時候の挨拶を、いつも冷笑していた――その二人が一緒になると、なぜかならず鼻もちならないほど月並な話をして、しかもたがいに気まりの悪そうなようすをしているのだろう?