トルストイ『少年時代』

わたしの心の目は、自分の見捨てようとしているものよりも、これから先で待ちうけているものに向けられていた。いままでわたしの想像をみたしていた、重くるしい思い出に結びつけられている、さまざまなものから遠ざかってゆくにつれて、こうした思い出は以前のような力を失い、エネルギーと新鮮味と希望にみちた、よろこばしい生の意識に、みるみる変わっていった。

わたしは心のなかによろこばしい不安と、なにかしたくてたまらぬ衝動を感じた――真の快楽のきざしだった。

読者よ、諸君は生涯のある時期にあたって、忽然とものにたいする見方が一変したのに心づく、そういった経験を持っていられるだろうか?いままで見馴れてきたすべてのものが急にひっくりかえって、まるで知らなかった新しい半面を示す――そういったような精神的変化が、こんどの旅行ちゅうはじめてわたしの心に生じたのだった。わたしはこれをもって少年時代の始まりと考える。

このときわたしの頭に、はじめてこういう考えがはっきりと浮かんだ。この世に住んでいるのはわれわればかりでない、つまり、わたしたちの一家族ばかりでない、したがって人生のいっさいの利害は、わたしたちの周囲のみをめぐって動いているのではない。この世界には、わたしたちよりほかにまた別の生活があって、わたしたちとはなんの共通点もなければ、わたしたちのことなどすこしも気にとめようとしないばかりか、わたしたちの存在さえもまるで知らない人たちが住んでいるのだ。もっとも、こういうことはわたしもまえから、よく知りぬいていたに相違ないけれど、でも、こんどこうして知ったような、そういう知り方ではなかった。まえには意識してはいなかった、感じてはいなかった。

思想が確信となるのは、つねに一種とくべつの径路を経なければならない。それは、たいていの場合、意想外な形式をとるもので、たとえ同一の確信に到達するのでも、ほかの人間のたどる道とはまるで違っていることが多い。

始終いっしょに暮らしている人間同士、たとえば兄弟、親友、夫婦、主従などのあいだで、あるかなきかの微笑や、動作や、視線などにあらわれる、神秘なき無言の交渉――こういうものに気づかない人はないだろう。ことにこれらの人たちが、完全にたがいの気持ちを打ち明けあわない場合には、なおさらこうした特殊な関係が明瞭に認められる。言外に含められた希望や思想、相手に腹を見すかされはしないかという不安、こういった千万無量の感情が、偶然おずおずと臆病らしく見あわされた一瞥のなかに含まれたりするものだ!

わたしたちの目は両方から出会った。すると、わたしは、彼がわたしの気持ちを悟っているのに感づいた。それと同時に、彼がわたしの気持ちを悟っているなと、こっちの感じているのを、無効でもまた見抜いているらしいのだ。けれど、どうにもあさえることのできない一種の感情が、わたしの顔をそむけさせた。

すべて年長者、ことに父親にたいする子供らしい絶対的尊敬の感情は、わたしの内部にかくべつよく働いていたので、わたしの理知は自分の見たものについて、なにか結論を求めるなどということを、無意識的に拒むのだった。わたしはパパがまったく特殊な、美しい環境に住んでいるもののように感じていた。それはわたしなどに思いもよらない、理解を絶した世界で、その生活の秘密に侵入してゆくのは、わたしとして一種の冒瀆であるように感じられた。

彼女はセリョージャを選ばないで、わたしを選ぶなどという約束をけっしてしたわけではないのだから、なにを根拠にして彼女を心中ひそかに裏切り者と呼んだのか、自分でもまるでわからなかったけれど、しかし、わたしは彼女が陋劣このうえない態度をとったものと、かたく信じて疑わなかった。

なにかで読んだことがあるが、十二から十四までの子供、つまり過渡期にあたっている少年は、放火や殺人にたいする特殊の傾向を持っているそうだ。自分の少年時代、ことにこの不幸な一日の気持ちを追憶してみると、わたしはどんな恐ろしい犯罪でもしかねなかったということを、きわめて明瞭に見てとることができる。それは目的もなければ、危害を加えようというつもりもなく、ただなにげなしに――単なる好奇心、無意識的な活動の要求から出る犯罪なのだ。人間の生涯には、未来がおそろしく暗澹たるものに感じられて、そこに思索の目を向けることさえ恐ろしいような瞬間があるものだ。そういうとき人はまったく理知の活動を止めて、未来もありえない、過去もなかったと、自分で自分を信じさせようとつとめるものだ。思想がひとつひとつの意志の決定を批判しようとしないで、ただ肉体的本能のみが生活の唯一のばねとなる。こうした瞬間に、経験のない子供、とりわけこういう気持ちになりやすい子供は、いささの躊躇も恐怖もなく、好奇の微笑を浮かべながら、心から愛する父母兄弟の寝ているわが家の床下に、枯れ木を集めて火をつけかねないのだ。わたしにはその気持ちがよくわかる。

まったくそれは正真正銘の憎しみだった。ただ小説だけに書いてあるような憎しみではない。小説などにあらわれる憎しみは、相手に害を与えて快とするものらしいけれど、わたしはそんなものを信じない。わたしの感じた憎しみは、たとえ相手が尊敬に値するような人物であっても、その人におさえることのできない嫌悪を感じさせ、その髪、頸、歩きぶり、声のひびき、手足、動作、すべてのものをたまらなくいたに思わせると同時に、なにか不思議な力でもって自分をその相手へひきつけ、不安な注意をもってその行動を細大もらさず見まもらせる――そういう種類の憎しみなのだ。

少年時代に、わたしがつねに好んで思索の対象としたのは、はたしてなにか?それをわたしがありのままにのべたら、おそらくだれも本当にするものがなかろう――それほどわたしの思索は、年齢と境遇にそぐわないものだった。しかし、わたしの考えによれば、人間の境遇とその心的活動に一致が欠けているということは、その真実さを証明するもっとも正しい兆候なのだ。
一年間ばかり自分自身のなかに集中された、孤独な生活を送っているあいだ、人間の使命とか、来世とか、霊魂の不滅とかいう抽象的な問題が、早くもわたしの心に浮かんできたのだ。わたしの子供らしい薄弱な理性は、向け意見な人間に独特な情熱をもって、思想の最高標準となっているこれらの問題を、闡明しようと努力した。しかも、それは人間の知性をもって到達できるけれど、まだ解決をあたえられていない大問題なのだ。
人間の理性というものは、個人個人の場合においても、大集団の場合におけると同じ発育の径路をたどるもののように思われる。そして、さまざまな哲学理論の根底となっている思想は、理性の分かつべからざる一部分をなしているもので、おのおのの人は哲学的理論の存在を知るよりまえに、そういう思想を多少なりとも意識するらしく思われる。
わたし自身の理性には、これらの思想が、きわめて明瞭に、しかも、恐ろしい力をもってあらわれたので、自分がはじめてこういう偉大な、かつ有益な真理を発見したような気がして、それを生活に応用しようと努力したくらいだ。
あるときわたしの頭にこういう考えが浮かんだ。ほかでもない、幸福は外部の原因に左右せられるものでなくて、それにたいする人間の態度に左右されるものだ、という考えで、たとえば、苦痛を忍ぶことに馴れた人間は、けっして不幸でありえない――こう考えたわたしは、自分を労働に馴らすために、おそろしい苦痛を忍びながら、五分間もタチーチェフの大辞典をさし上げてみたり、物置きに隠れて、自分で自分のむき出しにした背中を、思わず涙がにじむくらい、はげしく縄で引っぱたいたりした。
また、あるときは、いつなんどき死が待ち伏せしているかしれない、ということをとつぜん急に思いついて、どうしていあっまで人はこれを悟らないのだろうと、いぶかりながら、未来を考えずに現在のみを楽しむよりほか、幸福を得る道はないと決めてしまった――で、わたしは、この観念に支配されながら、三日間日課を放擲してベッドにごろごろしながら、ただ小説のようなものを読みふけったり、上等の蜜を塗った菓子をなけなしの金で買ってきて、それをむさぼり食うだけを仕事にしていた。
またあるときは、黒板の前に立って、白墨でいろんな形を描いているうちに、わたしは突然こういう想念に打たれた。なぜ均等というものは見た目に気持ちがいいのだろう?いったい均等とはなんだろう?それは生まれつきの感情だ――とわたしは自問自答した。では、その感情とはなににもとづくものだろう?はたしてすべてのものに、この人生に近世があるだろうか?どうしてどうして、これが人生なのだ――こう言いながらわたしは黒板に楕円形を描いた。この世の生活が終わると、霊魂は永遠のなかへ去ってしまう。これが永遠だ――わたしは楕円形の一方のがわから、黒板のはしまで線を引いた。しかし、なぜもう一方のがわにも、同じような線がないのだろう?まったく片がわの永遠なんてあるものじゃない!きっとわれわれはこの世に生まれるまえにも存在していたのだけれど、その記憶をなくしたに相違ない。こういう思索の脈絡をいま記憶の底に捕えるのは、きわめて困難なことだけれど、そのときはこれが図抜けて新しい、しかも明瞭なもののように感じられた。わたしは嬉しくてたまらなかったので、一枚の紙をとって、それを文章に綴ろうと考えついた。けれど、そのときわたしの頭に、突然さまざまな想念が雲のごとく湧きおこったので、わたしは立ちあがって、部屋のなかをひとまわりしなければならなかった。窓のそばへ行くと、ちょうどこのとき、馭者の手で車につけられようとしている、水運びの馬がふとわたしの注意をひいた。わたしの想念はことごとく、つぎの問題の解決に集中された。この水運びの馬が死んだら、魂はどんな動物のなかへ移ってゆくだろう、それとも人間に生まれ変わるだろうか?ちょうどそのときヴォロージャが部屋を通りすぎようとしたが、わたしがなにやら考えこんでいるのを見て、にやりと笑った。そのうすら笑いを見ただけで、わたしがいま考えていることのなにもかも、ばかげた寝ごとだと考えるのにじゅうぶんだった。

わたしは父を愛している。けれど、人間の理性は感情と独立して生活しているので、しばしば愛情を侮辱するような想念や、感情にとって理解しがたい残酷な想念を許容するものなのだ。こういう想念はどんなに追いのけようとしても、よくわたしの心を訪れるのだった……

お祖母さんの遺骸が家にあるあいだじゅう、わたしは重くるしい死の恐怖感を経験した。つまり、死人の身体がわたしに向かって、おまえもいつか死ななければならないのだぞ、とこう不愉快なほどいききと囁くのだった――この感情を人はどういうわけか、悲哀と混同したがるものだ。わたしはお祖母さんの死をたいして悼まなかった。それに、心から哀悼を感じたものが、はたしてだれかあったろうか。うちじゅう悔みの客でいっぱいになっていたにもかかわらず、だれひとり彼女の死を悼むものはなかった。ただひとり例外があって、その痛切な悲哀は、言葉に尽くせないほどの印象をわたしにあたえた。その例外というのは、ほかでもない――小間使いのガーシャだった。彼女は屋根部屋へはいって、そこへ閉じこもったきり、ひっきりなしに泣きつづけながら、われとわが身を呪い、髪の毛を引きむしっていた。人がなんと言って宥めても耳に入れようとせず、敬愛する女主人の死後、自分にとって唯一の慰めは、ただ死ぬよりほかにないと言った。
もう一度くり返して言うが、感情に関することでは、本当らしくないということが、その真実さを証明するもっとも正確な兆候なのだ。

概してわたしはすこしずつ、少年時代の欠点を匡正していった。ただいちばんおもな欠点だけは例外だった。この欠点はわらしのせ威喝において、まだまだ多くの害毒をあたえずにはすまぬ運命になっていた――それはほかでもない、例の知的解剖癖だったのだ。

奇妙なことではあるが、わたしとヴォロージャは、いく時間もいく時間も、無言のままさし向かいでいるくせに、たとえ無口な人間でも第三者がはいってきさえすれば、たちまちわたしたちのあいだに、きわめて興味のある種々さまざまな会話が始まるのだった。わたしたちはあまりおたがいによく知りすぎているような気がした。あまりよく知りすぎるのも、あまり知らなさすぎるのも、同じように接近を妨げるものだ。

賞讃というものは単に人間の感情ばかりでなく、理性の上にも力強く働きかけるものだ。わたしはそのこころよい魅力に支配されて、自分がまえよりずっと賢くなったような気がした。そして、さまざまな思想があとからあとからと、異常な早さでわたしの頭に浮かんできた。自愛心ということから、わたしたちはいつのまにか愛の問題に移っていた。そして、このテーマになると、会話は無尽蔵につづくような気がした。わたしたちの議論は第三者にとって、ぜんぜん無意味に感じられたかもしれない(それはみな漠然として、しかも一方に偏したものだった)。が、それにもかかわらず、わたしたちにとっては、高遠な意味を持っていたのだ。わたしたちの心は完全に一つの調子に合っていたので、一方の心がほんのちょっとでもなにかの琴線にふれると、それはすぐいま一方の心に共鳴を見いだすのだった。わたしたちはつまり会話のなかで触れるさまざまな琴線の共鳴音に、興味と満足を覚えたわけだ。二人はあとからあとから湧きおこってくる思想を、たがいに表白しあうのに、言葉も時も不充分なように思った。

わかいときにはまだ理知というものを尊重して、その力を信じたがるものだ。わかいときには、人間の心のあらゆる力が未来へ向けられる。しかも、その未来は、過去の経験を基礎としないで、仮想された幸福の可能の上に築かれた希望に支配されるために、思いきって変化に富んだ、いききとした、魅力のある形をとる。それゆえ単に未来の幸福を空想し、それを理解しあい、分かちあうだけでも、それがこの時代における真の幸福となるのだ。わたしたちの会話のおもな対象は形而上的な議論だったが、その間にどうかするとこういう瞬間が訪れる――思想はあとからあとからと、目まぐるしく入れかわって、だんだん抽象的になってゆく。そして、しまいには極端なほど雲煙縹渺としてきて、どうにも表現のしかたがなくなるので、自分の考えていることを言うつもりで、まるで別のことを口に出してしまう――そういう瞬間がわたしは好きだった。いよいよ高く思想の領域へ登ってゆくうちに、その無辺在な偉大さを直感して、もういよいよ先へ行けないと自覚する――そういう瞬間が好きだった。

「じゃ、ぼくらがなぜ気が合ったか、そのわけを知っていますか?」善良なk氏恋目つきでわたしの自白に答えながら、彼はこう言った。「僕はもっともっと馴染みが深くて、共通点の多い人たちよりも、君のほうをよけい愛しています、それはなぜでしょう?僕はいまその問題を解決したんです。君は世にも稀な、おどろくべき性質を持っています――それは正直ということです」
「そう、僕はいつも自白するのが恥ずかしいようなことばかり言うんです」とわたしは相手の言葉をたしかめた。「しかし、ただ心から信じている人にだけ」
「そう。しかし、人間を信じるのには、心底からの親しみというものが要ります。ところが、僕たちはまだ本当の親友じゃない。ねえ、ニコラス、覚えてるでしょう、僕らが友情の話をしたことを?本当の親友となるためには、たがいに信じあわなければいけないって」
「あなたは僕の言うことをけっしてだれにも言わない、それを信じなくちゃならないんです」とわたしは言った。「だっていちばん興味のある肝腎の思想は、けっしておたがいに話しあわないような思想なんですからね」
「それに、おそろしく汚い考えも、やはり隠しますね?どうしても白状しなければならないと知ってたら、けっして頭に浮かびっこないような、下劣きわまる考えもね……ねえ、ニコラス、僕はいいことを考えつきましたよ?」彼は椅子から立ちあがって、にこにこと揉み手しながら、こう言いたした。
「ねえ、そうしようじゃありませんか。そうすれば、これがわれわれ二人にとって、どんなに有益なことかわかるから。これからは、おたがいになんでも自白しあうことにしましょう。われわれはおたがいの人となりを知りあわなくちゃならない。そうすれば、気まりが悪いなんてことはなくなってしまう。そこで第三者を恐れないために、けっしてだれにもいっさい、おたがい同士の話をしないようにしましょう。そうしますね?」

カルルはこう言っている。すべての愛着には二つの側面があって、一方はみずからを愛し、他は自己にたいする愛を許すものである、一方はみずから接吻し、他はおのれの頬をさし出す――これはまったく本当のことだ。われわれ二人の友情においても、わたしは接吻するがわで、ドミートリィは頬をさし出すがわだった。しかし、彼もわたしを接吻することを辞しはしなかった。わたしたちの愛は平等だった。なぜといって、わたしたちはたがいに知りあい、尊敬しあっていたからだ。けれども、それは彼がわらしに感化を及ぼし、わたしが彼に従う邪魔にならなかった。
自然の結果として、わたしはネフリュードフに感化されて、彼の心的傾向をも知らずしらずとりいれた。その傾向の本体は、善行の理想にたいする狂熱的な崇拝であり、不断の完成にたいする人間の使命の確信だった。その当時は、全人類を匡正し、この世のあらゆる悪と不幸を殲滅するということをも、実現が困難でないように思われた。自己を匡正し、いっさいの善行をおのれのものとして、幸福な人間になることなどは、きわめて簡単な容易なことに思われた……
とはいえ、こうした青年時代の高潔な空想は、はたしてほんとうに滑稽なものだったろうか?また、その空想が実現されなかったのは、いったいだれの罪だろう?――それはただ神よりほかに知るものがない……