谷崎潤一郎『細雪』

「秋やなあ、――」
と、新聞の面から顔を上げて、貞之助に云った。
「――今朝は珈琲が特別強う匂うて来るように思いなされへん?」
「ふん、……」
貞之助は貞之助で、新聞をひろげたまま読む方に気を取られていたが、そこへお春が珈琲と一緒に雪子の手紙を盆の端に載せて這入って来たのであった。

彼女は、歌舞伎座の方から橋を渡って河岸通りを此方へ歩いて来る雪子の日傘が目に留まると、徐かに座敷の中へ這入って、自分の顔色を見るために、次の間の鏡台の前に坐った。そして紅の刷毛を取って二三度頬の上を撫でたが、ふと心づいて、傍にあった化粧鞄を、悦子に聞かれないように金具の音を立てずに開けて、ポッケット用のブランデーの壜を出すと、それを蓋のコップの中に三分の一ほど滴らして飲んだ。

今度ばかりは妙子と二人の姉との間に感情の疎隔が生じはしまいか、殊に雪子との間がどうであろうかと、内々貞之助は案じていたが、或る日、夕方帰宅した彼は、幸子が見えなかったので、捜すつもりで浴室の前の六畳の部屋の襖を開けると、雪子が縁側に立て膝をして、妙子に足の爪を剪って貰っていた。

なるほど蛍狩と云うものは、お花見のような絵画的なものではなくて、冥想的な、……とでも云ったらよいのであろうか。それでいてお伽噺の世界じみた、子供っぽいところもあるが。……あの世界は絵にするよりは音楽にすべきものかも知れない。お琴かピアノかに、あの感じを作曲したものがあってもよいが。……