三島由紀夫『鹿鳴館』

顕子 でもお母さま、悲しい気持の人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて?幸福な人には景色なんか要らないんです。
季子 そうするとこのお庭の持主も、幸福ではなさそうね。

季子 殿方はいわば技師で、学理を受け持つのは私たちですもの。……それであの方は政治がおきらい。すべてこうしたことがおきらい。だって公式な事柄が嘘いつわりのはじまりですもの。殿方の嘘つきは、あんな公式の世界で養われてゆくわけですもの。

季子 この子の両親とも公家の出ですけれど、長い袖をもてあましていた先祖のように、この子も過激なことが好きなんです。本当の公家の血は過激派の血なんです。お金持だけがお金を軽蔑できるように、私共は因襲のお庫を持っていますから、因襲を軽蔑することができます。私の主人のような優柔不断は、公家の風上にも置けませんわ。
朝子 そうすると過激な恋愛をなさっていらっしゃるのね、そのかわいいお顔で。

朝子 色恋のことでたよりにしていただいた以上、どんなことをしてでもお二人の恋路をひらくようにいたしませう。そのためなら勇気が湧きますわ。コウ意地をふさいでいるどんな大木でも、女手一つで倒してさしあげますわ。どうなさるおつもりだったの?もし久雄さんの身にもしものことがあったら。
顕子 お跡を追うつもりでをりました。
朝子 その一言を伺って、どんなことでもして差し上げる自信がつきました。ねえ、奥様、その書生さんの命がけのお仕事、男がかうと思い込んだ女のことなどは忘れてしまうお仕事、それを私共女の力で打ち砕かなければなりませんのね。
季子 そうよ、私共女が力をあわせて、しゃにむに走り出す男の足を、引き戻さなければなりませんわね。男は身を滅ぼすために夢中になります。男が夢中になるもののの中でまず当を得ているのは女だけですわ。ほかのことは下らないことばかり。

朝子 昔のままのあなただわ。二十年前のあなただわ。いつも若々しい方!
清原 私の中にはこの歳になっても、一人のどうにもならない子供が住んでいるのです。
朝子 その子供を大切になさらなければいけませんわ。女が愛するものも、民衆が愛するものも、猛々しい立派な殿方の中のその汚れのない子供なんですわ。

朝子 御立派だわ。御立派だわ。あなたは今私の目には、光りかがやくような方ですわ。(狂喜して立ち上がり、庭先より大輪の黄菊をとる)勲章をさし上げますわ。女のさし上げる勲章は、金や宝石の冷たい死んだ勲章ではございませんの。(その菊を清原の襟の釦穴に挿してやる)生きた勲章、朝毎の霜をくぐってますます光りかがやく勲章。
清原 しかしこの勲章はいつかは萎みますね。
朝子 今日は大丈夫保ちますことよ。

影山 憎悪や殺意は不平分子にだけあって、政府にはそんなものはない筈なのだ。反対派は人間性を代表し、政府は偽善を代表する。

影山 お前は殺す相手の気持がわからんときに、安心してそいつを殺せるのだ。私はそれでは物足りないね。たとえ私の命令で清原を殺すにしても、その間には別の感情の屈折がほしいのだよ。久雄の悩み、久雄のためらい、そういうものが十分あって、その上であいつが父親を殺すのでなくては物足りなんのだ。私は他人の悩みが好きだ。血は必ずしも好かんが。殺す人間と殺される人間とのあいだに感情の交流が、少なくとも火花が散ってほしいのだ。私が清原に与えたいのは、暗殺されたよいう名誉じゃなくて、わが子の手で殺されたという取り返しのつかない汚濁なのだよ。

朝子 まあ、殿様、もう召上っていらっしゃるの?
影山 まだ呑んではおらんよ。何故だね。
朝子 いつもは冴えないお顔色が、御血色も大そうよくて、お目がかがいてみえますわ。
影山 それはね、私が生まれてはじめて感情にかられて行動しようとしているからだろう。
朝子 まあ怖いこと。でもたまには例外をお作りになることは、おたのしうございましょう。
影山 そうだ。めずらしい自分を見ることは、体のためにもいいことだ。何しろ私の目に映る私自身は、年がら年中、額縁の中の肖像画同様、いつかな動こうとしないんだからね。

影山 いいかね。青年というものは憐れなものだ。火のような行動と灰のような無気力との間を行ったり来たりしているが、そのどちらにも満ち足りない。自分には何でもできると思ったり、自分には何もできないと思ったりする。そうして喰って練るだけのことは器用にやってのけるのだ。君は今日一日のうちに、一方の端から一方の端へ引っくりかえった。自分の犯している矛盾にはちっとも気づかず。