大江健三郎『性的人間』『叫び声』

『性的人間』

「パーティの政治家たちは、技術を見たんじゃない。十六の娘がどんなに恥しらずになれるか、ということを見たのさ」と運転している妹の脇に妻とならんで坐っているJがいった。「どんな種類の、わいせつなショウでも、それはかわらないよ。技術を見せて、そのかわり恥ずかしい自分の肉体は透明にする、ということはできないさ。観客が見たいのは、恥しらずな肉体そのもの、恥そのものなんだから!」

傷ついて醜い娘の印象だけがJに、それの原因をつくった痴漢の少年にたいするわずかな嫌悪の種子となった。こんなに厭らしくて尊大そうで、しかもみじめに怯える娘になぜペニスをこすりつけてやったりしたんだ?とJは、不満に思ったわけだ。
「娘さんよ、こんなことでは妊娠しはしないよ、またあなたは処女をうしなってもいないよ、純潔だよ!」とますます図に乗って中年男は娘にささやき、まわりの乗客たちを再び笑わせた。その時になって老人もJも、男がアルコールの匂いをたてていることに気がついた。

「おまえたちが男色家でなければ、おれは行くよ。ともかくおれは男色家のための可愛らしい鶏じゃないんだから」と少年は嘲笑的にいった。
Jは答えなかった。かれはもう永いあいだ同性の情人と寝たことはなかった。しかし、若い男の裸体や男根の感触への不意の渇望がかれを混乱させることはあった。おれはもう決してあの種の刺戟的な性関係をもつことはないだろう、とかれはいわば自己処罰的に考えていたが。もっともJは男色家的本質というものが生れながらに一人の人間に内在的に存在してその人間を一生涯、男色家として決定する、というように考えるタイプではなかった。「わらしたちは男色家じゃない、それにわたしたちのことを、おまえたちなどと呼ぶのはよせ!」と老人がいった。

痴漢たちは、発見され処罰されることをきわめて深く懼れてはいるものの、同時に、その危険の感覚なしには、かれの快楽は薄められあいまいになり衰弱し、結局なにものでもなくなる。禁忌が綱渡り師にその冒険の快楽を保障する。そして痴漢たちが安全にかれの試みをなしとげると、その瞬間、安全な終末が、サスペンスのなかの全過程の革命的な意味を帳消しにしてしまうのである。結局、いかなる危険もなかったのだから、いままで自分の快楽のかくれた動機だった棄権の感覚はにせにすぎなかったのであり、すなわち、いまあじわい終ったばかりの快楽そのものがにせの快楽だと、痴漢たちは気がつく。そして再びかれはこの不毛な綱渡りをはじめないではいられない。やがて、かれらが捕えられ、かれの生涯が危機におちいり、それまでのにせの試みがすべて、真実の快楽の果実をみのらせるまで……

「本当におれはそれほどおびえていたかい?じゃ、おれは少しずつほんものの痴漢にちかづいているんだ。おれの頭が考えだして、隅からすみまで設計したとおりの意識的な痴漢でなく、おれの頭を越えて実在する他者的な痴漢に。おれのなかの思いがけない他人としての痴漢にちかづきつつあるわけさ」と少年はいった。かれはJの嘲弄を意に介さず、自分自身の饒舌にだけ情熱を集中しているのだった。Jはこの種のナルシシストの人間が好きだった。従ってJは微笑をうしなうことなしにいわば好意的な嘲弄をつづけることができるわけだ。
「自分のなかの他人になりたい、という欲求は、ぼくもきみくらいの年齢では充分に持っていたぜ。それは単純にいえば、大人になりたいという子供らしい熱望なのさ」とJは少年をいかにも子供あつかいにしていった。

『叫び声』

アメリカ・ネグロの父親と日系移民だった母親との混血で、かれは自分のことを黒人の血と黄色人の血の斑になった、人種上の《虎》だといった。

鷹男によれば、解剖学図譜は浴室へもちこまれてエロティックとまったく逆の効用をはたすのだった。かれが熱心に見つめるのは、色素の沈着せる陰唇、小陰唇の弁、尿道傍線の解剖学という図や、外陰に見られるいちじゅるしい静脈という図などで、それは鷹男に、女と無関係にひとりぼっちで性的満足をえていることがいかにいいかを、すなわち自涜の光栄を、くりかえしくりかえし思いしらせるものだということだった。

《まったく、おれが礫をなげても、なにひとつこの世界にその結果があらわれないのだから、おれはこの世界に存在していないとおなじだ。おれは敵の神におれの存在を拒まれているわけだ。おれが存在していると主張するためには礫などという不確かなものでなく、もっと確実な方法で神の眼をかすめて、この世界にもの凄い結果をひきおこしてやるほかない。そのときはじめて、おれはこの現実世界におれ独自の危険なauthenticiteをしっかりもってそんざいしていることを証明できるのだ。ああ、そうでもなければおれは本当に自分が生きているのかどうかさえわからない》

呉鷹男は小っぽけな鼠のようにおずおずと水槽のかげにひきさがろうとした。かれは女子高校生の眼にうつっている《善良で無害なひとりの若者》の自分をはっきり思いえがくことができた、小っぽけな鼠のようのおずおずとした若者。そして突然かれは愕然として覚醒した。確かにあいつがいったように、おれは怪物どころか犬ころのような小さな不満家にすぎない、この小さな不満家おれは怪物となって自分自身の国を主張するどころか黙ってこそこそ死んでゆくのだ、流浪生活の小さな不満家として。ああ、それはいやだ、おれが怪物なら、おれは本当に怪物となりたい、怪物となって爆発して、おれ自身の国、おれ自身の世界を見るのだ、虎が横須賀で撃ち殺されながらあおむいてそこにアフリカの空を見たように……

死とは、自分の肉体を他人の手にひきわたすという感覚だった、医師と看護婦、あるいは神たち、悪魔たちに、そして結局は虚無に、虚無のまた虚無に。