モーパッサン『女の一生』

夫妻は簡素な暮しをしていたから、これだけの収入で充分やっていけるところだったが、如何せん、この家には開きっぱなしで底なしの穴があった。人の好さという穴である。陽が沼地を干上がらせるようなもので、この穴が彼らの手から金を吸い取ってしまうのである。流れだし、たちまちのうちに遠ざかり、消えてしまうよいう具合だった。どういうふううにして?そこのところが誰にもわからない。いつも決まって、夫妻のうちのどちらかがこんなことを言う、「どうしてこんなことになったのかわからないんだけれど、大したものを買ったわけでもないのに、今日、百フラン使ってしまった」
唯々として他人に与えることを惜しまない、これが彼らの生活の大きな楽しみとなっており、この点で二人の意見は何の齟齬もなく、人を感動させるくらいぴったりと一致していた。

彼女は恋について、あれこれと夢想に耽りはじめた。
恋!二年このかた、近づいてくる恋の予感に、彼女の心は徐々に高まる不安でいっぱいだった。それが今、とうとう自由に恋をしても構わない身となったのだ。ただ、めぐり会さえすれないいのだ、恋する人に!
どんな人だろう?自分でもはっきりと思い浮かべることはできなかったし、自分の心に訊ねてはっきりさせようとしたことさえなかった。要するに、彼なのである。
わかっているのは、自分が心から彼を熱愛するだろうということ、彼のほうでも全身全霊をあげて自分を愛してくれるだろうということだけだった。今日のような夜には、星から降り落ちてくる灰のような光のなかをいっしょに散歩しよう。手と手を握りあわせ、ぴったりと寄り添い、相手の胸の鼓動を聞き、熱っぽい肩の感触を意識しながら、快くすがすがしい夏の夜に二人の愛を溶けこませて歩きつづけるのだ。しっかりと結びあった二人は、愛情の力だけで、互いに相手の気持の奥の奥まで理解することができるにちがいない。
こうして二人の仲はいつまでも変わることなく続くだろう、何の波瀾のあるはずもない不滅の愛で結ばれて。

子爵は、女性の空想のなかに登場するにはぴったりだが、男の眼には決まって感じが悪く映るという、あの美男子然とした容貌の持主だった。

ウェストが太くなるに従って、彼女の魂はますます詩的な飛躍をよげるようになった。肥満が高じて、肱掛椅子に釘づけにされてしまうと、心のほうは恋物語のあいだをさまよいあるき、夫人はそのヒロインになったような気でいるのだった。

彼女は自分の席を持っていなかった。家族の者にさえ未知で、見きわめのついていないような存在、死んでも家のなかに穴があきもせず空白も生じないというふうな、いっしょに暮らしている人たちの生活にも習慣にも愛情にも加わるすべを知らない存在、そういう存在だったのである。

ジュリアンが口もきかず動きもしないので、ゆっくりと視線を移して彼の様子を窺ってみると、なんと、彼は眠っているではないか!口を半開きにして、穏やかな顔つきで、眠っている!眠っているのである!
信じられなかった。腹立たしかった。さっきの乱暴な振舞い以上に、この眠りに気持を傷つけられ、とくに誰ということのないただの女として扱われたという感じが胸に迫った。こんな夜に眠れるのだろうか?してむると、二人のあいだに起こったことは、彼にとって何ら驚くほどのことではないのだろうか?ああ!まだしも、殴られ、また乱暴され、気を失ってしまうほど忌まわしい愛撫でいためつけられるほうがましだった。

こういう女性特有の神経的興奮、何でもないことに心を掻き乱される感動しやすい女性の心の動きなど、彼には理解できなかった。何かに夢中になると、それこそ大異変でも起こったかのように動揺し、ほんんお微かな冠買うをおぼえても動転の極に達して、歓びのあまり有頂天になったり絶望の淵に沈んだりすることなど、彼にはてんで理解できなかったのである。
涙を流していることが彼には滑稽としか思えなかった。

遠い国をなつかしく思う気持は少しずつ薄らいでいった。ある種の水が石灰質の膜を物に付着させるようなもので、習慣が彼女の生活に諦めの層を重ねていった。そして、日々、生活を続けるうちに遭遇するたくさんの瑣末なことに対する一種の興味、毎日同じように繰り返される単純で平凡な仕事への関心、そういったものがまた心中に湧いてくるようになった。彼女の胸のうちには、憂鬱な瞑想的気分、生きることに対する漠とした幻滅感がひろがっていった。いったい、何が必要なのだろう?何を望んでいるのだろう?自分でも、わからなかった。世俗的な欲望などいっくに感じなかったし、楽しみを求める気持もなく、得ようと思えば得られる歓びに対してさえ、積極的な気力が起ってこなかった。それに、歓びなどといったところで、どんな歓びがあるというのだろう?客間の古い肱掛椅子が時とともに色褪せていくのと同じように、彼女の目にはすべてのものがゆっくりと色を失っていくように見えた。すべてのものの影が薄くなり、蒼白い陰鬱な色調を帯びていった。

今にもとびこもうという構えで、彼女は立ち上がった。望みを失った人生に別れの言葉を投げかけ、死のうとする人たちの言う最後の言葉を呻くように口にした。それは、深傷を負った若い兵士が叫ぶ最後の言葉、「お母さん!」という一言だった。

男爵夫人は、まだすすり泣きに息をきらしてはいたが、ここで、夫の若いころの道楽を思い出し、唇にうっすらと微笑の影を浮べた。というのも、夫人は、情にほだされやすく善意にあふれた、感傷的な気質の持主だったからで、こういう気質の人たちにとっては、色恋沙汰が生活の一部を成しているのである。

また想い出が蘇ってきた。今度は、自分自身の過去にまつわる想い出である。――ロザリー、ジルベルト――心を傷つけられた苦い幻滅感。してみると、この世には、悲惨、悲哀、不幸、死を除けば、何もないのだ。欺き、嘘をつき、苦しめ、涙を流させるものばかりなのだ。せめても、いくばくかの憩いと歓びをどこに求めたらいいのだろう?たぶん、あの世に求めるべきなのだ!この地上での試練から魂が解放された時に。魂!彼女は、この測りしれない神秘なるものについて想いに耽りはじめた。詩的な想像を逞しくして、いきなりそれを頭を信じこんでしまうかと思うと、そのすぐあとに、一転して、また同じくらい曖昧な想定をしてみたりする。いったい、お母さまの魂は今どこにあるのだろう?この氷のように冷えた動かない躯に宿っていた魂は?おそらく、ずっとずっと遠いところへいってしまったにちがいない。この宇宙のどこかへ?でも、どこだろう?枯れた花の香りのように蒸発してしまったのだろうか?それとも、籠から抜けだした見えない小鳥のようにさまよいつづけているのだろうか?
神に召されたのだろうか?それとも、神の新しい創造物となるべく散りぢりに振りまかれ、今まさにひらきかけた生命の胚芽に宿っているのだろうか?
すぐ近くにいるのかもしれない。この部屋のなかに、離れたばかりの、この生命のない肉体のまわりにるのでは?と、不意に、ジャンヌはふっと空気が動いて顔をかすめ通っていったような気がした。霊が触れたのかもしれない。こわかった。身の毛のよだつほどこわかった。あまりのこわさに、動くことも、息をすることも、振り向いて後ろを見ることもできない。ワッとおどかされた時のように胸がどきどきする。

彼自身は、自然を讃美する古い哲学者の系譜に属していた。二匹の動物が交接するのを見てもすぐに心動かされずにいられないし、一種の汎神論的な神の前には拝跪するが、偽善的な神の怒りだとか横暴な神罰といった道具立てをそろえた、ブルジョアのためのカトリック的な神の概念には、我慢がならないというふうだった。こういうカトリックの神は、その全貌を知り得べくもない森羅万象、厳然として動かし難く無限であり全能である創造というものを卑小化してしまうものだと彼には思えるのである。創造とは、同時に生命であり、光であり、大地であり、思想であり、植物、岩石、人間、空気、動物、星、神、虫であって、創造という名の通り絶えず創造しつづけるものであって、一個の意志などというものを超えた力を持ち、片々たる人間の理窟などというものを超えた広さを持つものである。偶然の必然性に従い、太陽のような存在がたまたまこの世界のような存在の近くにきて暖めてくれるかくれないかという成行き次第で、無限の空間にわたってあらゆる方向にあらゆる形で、目的も理由も終りもなく、さまざまなものを産みつづけていく、これが彼の考える創造というものだった。

がたがたと躯を震わせ、襤褸をまとい、濡れねずみで、ぼさぼさにもつれた髭を生やし、へこんだ帽子の下から長い髪を垂らした、いかにも汚らしい乞食爺さんは、鉤型に曲った杖の先で二死体の死骸を指し、昂然として言った、「こうなっちまえば誰も同じ、わしらはみな平等じゃわい」

「神様はどこにでもいるけど、教会にだけはいないんだよ」

レストランに入ってブイヨンでも口にしたかったが、どの店にも入っていくだけの勇気が出なかった。恥ずかしい。こわい。心中の悲しみが顔に出ていることがわかっているので、羞恥に似たものを感じる。入口の前でちょっと足をとめ、中に視線を走らせ、みんながテーブルについて食事をしている光景を見、怖気づいて逃げだしながら、「次のレストランに入ろう」と思う。そして、次のレストランにもやっぱり入っていけなかった。
しまいに、やむなくパン屋で三日月型の小さなパンを買い、歩きながらそれをかじりだした。喉がかわいてたまらなかったが、どこへいけば飲物にありつけるくぁからないので、飲むものもなしですませた。

ジャンヌは何も答えず、帽子をかぶった。表には出せない深い歓びが、なんとしても人には隠しておきたい邪な歓びが、胸いっぱいにあふれていた。恥ずかしいと思いはしても、密かに深く隠れた心の奥底で感ずるものをどう抑えようもない、あの忌むべき歓びをおぼえていたのである。――あの子の情婦が死にかかっているのだ。

「人生っちゅうもんは、まんず、人の思うほど良くも悪くもねえもんだのう」