武者小路実篤『お目出たき人』『新しき家』『二人の彼』

『お目出たき人』

女によって堕落する人もある。しかし女あって生きられる人が何人あるか知れない。女あって生まれた甲斐を知った人が何人あるか知れない。女そのものはつまらぬものかも知れない(男の如く、否それ以上に)。しかし男と女の間には何かある。
誠に女は男にとって「永遠の偶像(エターナルアイド−ル)」である。
「アダム」は「イヴ」によって楽園から逐い出されたかも知れない。しかし一人で楽園にいるよりはイヴとともに楽園を逐い出された方がアダムにとって幸福だったかも知れない。
女そのものは知らない、しかし女の男に与える力は強い。
いわゆる女を知らないせいか、自分は理想の女を崇拝する。その肉と心を崇拝する。そうしてその理想的の女として自分の知れる範囲に於て鶴は第一の人である。
鶴に幸あれ!
しかし自分はいくら女に餓えているからといって、いくら鶴を恋しているからといって、自分の仕事をすててまで鶴を得ようとは思わない。自分は鶴以上に自我を愛している。いくら淋しくとも自我を犠牲にしてまで鶴を得ようとは思わない。三度の飯を二度にへらしても、如何なる陋屋に住もうとも、鶴と夫婦になりたい。しかし自我を犠牲にしてまで鶴と一緒になろうとは思わない。

自分は男だ!自分は勇士だ!自分の仕事は大きい。明日から驚くほど勉強家になろうと自分は自分を鼓舞した。そのうちにねてしまった。

『新しき家』

しかし自分は快楽の内に求め得ないものを自分は淋しさお内に知っていた。そして自分は快楽には縁遠くて育てられて来た。女の人たちと面白く話している時、自分はふと淋しくなる。寂しさの内にのみ自分は安心に無遠慮に自分を生かせる人間の気がする。肺病になるならなれ。しかし若死はしてやらないぞと思った。

今死ねば自分はしあわせものだと考えた。これからの世の中にはどんな恐ろしいことが待っているかも知れない。なまじなが生きするといろいろ悲惨な目にあうかも知れない。この世の中は今後そうながくは無事ではあるまい。いろいろ見たくないことを見、聞きたくないことを聞き、逢いたくない日に逢いそうな気もすると思った。しかし自分の仕事を思うとどうも早死にはしたくないと思った。仕事に執着がなかったら、わりに自分の死はあきらめはいいかとも思った。
ひどい目には逢いたくない、あの時死ねばこんな目に逢わずにすんだという目には逢いたくはない、しかし今迄の仕事で自分を判断されるのはたまらないと思った。生きられるだけいきたいと思った。
汽車は我孫子に近づいた時い、北の方に恐ろしい雲があった。層の厚い雲だった。その雲のわれ目に青空がのぞいていた。その青空の色が実に美しく見えた。そして限りなく深いもののように見えた。永遠を思わせるような色だった。それを見ながら自分は死を思うと不調和な気がした。人間が死ななければならないものだということが不合理なような気がした。そう思って畑や林や樹や草を見ると今更に美しいものの気がした。この世の美に別れることは淋しい勿体ないことのような気がした。自分には珍しい感じだった。

自然は朝の光のもとに輝いていた。沼は静かに横たわっていた。葦はそよ風に少し身体をゆすぶっていた。自分の内には愛が満ちていた。自分は涙ぐみながら沼のわきの道を歩いた。
自分は死にたくないと思った。同時に死んでもいいと思った。何ものかに身を任せたい気がした。同時に戦ってやるという気がした。自分は歩きまわったり、立ちどまったり、深呼吸をしたり、気をゆったりさしたりした。肩の痛みが気になったり、まるでそれを忘れたりした。そして生きていることは有難いことだと思った。

肺がわるいと言われたことは一人の医者の過失からにしろ、その過失から生まれた決心は過失とは思えなかった。そして前の医者が肺がわるいと言ってくれたことはかえってよかったと思った。今後安心したら子度こそほんとうに病気になる。油断してはいけない、かの医者の誤診を自分は運命がじぶんい与えた警告として気聞こうと思った。そして自分はその警告に感謝した。

『二人の彼』

日本もこれから面白くなるぞ。
彼は朝飯を食うと、急に、画家の高峰のところにゆきたくなった。彼はいそいで出かけた。自分たちは何かの力を感じている。それが一つに燃え上がれば必ず何かできる。
実行家の野島、画家の高峰、詩人の吉本、小説家の時田、思想家の月島、それに脚本家の自分、それらが本気になってめいめい自分の仕事を一身にやってゆく。面白い時代に生まれたものだ。そしてより若い連中がだんだん芽を出し出した。その内には恐ろしい奴がいないとは限らない。
彼は何かの力を彼らの本気さが、よびよせだして、日本人に与えられた人類的本能が一つになって自分たちの内にたかまって来つつあるような気がした。この本気さえつづけば自分たちの内にたかめられて来つつある力は何かを生かさなければならない。時がくる迄その力をじっと自分の内に押えておく力さえあれば、自分もきっと何かする。
自分に力はなくっても、その力は自分を通じて顕われなければならないことを感じた。彼は世間からは無視されていたが、その力を説に感じていたから、何にも怖いものはなかった。

大きな山を見れば偉大な感じを受ける、その山にキタナイものもあるでしょう。しかし全体を見るものにはそれはなんでもない。ありふれた例をとって見れば海には随分キタナイものがあひる。私は子供の時に海で小便をして、そのすぐあとで平気で海の水をのんでキタナイとは思わなかった。思うには大きすぎたのです。理屈で考えたり部分で見たりするとキタナクも思えるものがほんとうを知り、全体を見るとキタナクない、かえって其処に面白さも出てくる。人間でも、あまりに一部分だけを見つめる癖はよくない。全体を見ないとどうしても厭世的になります。

考えると人間はつまらないものだ、だがある事実にぶつかると、人間はムキになる。よろこびを感じる、そして感謝する、そのある事実にふれた時は、理屈で人生を否定しても、心の底ではよろこびの歌を唄う、人生の面白さはその事実にのみかかっている。その事実を知るものは宗教家と、芸術家だ。時重もそすいう事実のあることを知っている。だが考えるとそういうじじつが空で、人間のつまらぬことの方がほんとうらしくなる。そしてそのほんとうのことを正視するのがいやで、ある事実の存在を仮定しそれにすがることによって恐ろしい事実からのがれようとするように思える。そう思っている人はかなりいる。しかし時重はそうばかりは思えない。彼は人間がどうしても自分のこの世に存在したことがよろこびであることを感じさせることができるような脚本をかきたい、人生は空ではない、零ではない、ある調子を出すことのできる楽器で、その調子を出したら、人間は自分の生命を否定できない。勇猛心がおこり、厳粛な気分になり、何ものかに感謝したくなり、生命はそのためには惜しくなくなる。その音を彼は自分の芸術で出したいのだ。
「そのために死んでもいい、死んでもいい、俺は感謝する」

「われわれは」という言葉が弁士の口にたびたびのぼった。それはいかにも「われわれは」という感じを与えた。時重にはそれが珍しい気がした。
弁士はこんなことを言っていた。
「われわれは正しい生活を知りました。正しい生活を知って正しい生活にはいらないのは、卑怯です、臆病です。われわれは卑怯ものにはなりたくない。今の世に正しい生活ができるということはよろこびです。われわれはそのよろこびのもとに生活し始めました。われわれは最早孤独ではありません。何かに守護されています。われわれはよろこびを通してそれを感じています。われわれは他人の不幸の上につぎ木した幸福を味わいたくない。今の世の不正の上に不当の安逸をむさぼりたくない。このことはわかりすぎていることです。しかもわrてわれはその不当の安逸をむさぼって来ました。私たちはもう不当の安逸からおりて、皆と一緒に正しい生活をはじめないと心に恥じます。それは何かの意志に背くことです。われわれは何をおいても、その人類の正しい意志に背きたくはないのです。われわれは人類の意志に背かない生活を見出したのです。その生活をしないわけにはゆきません」