島田雅彦『溺れる市民』

ゴミ拾い名人の存在は、ゴミを捨てさせない無言の圧力を眠りが丘の公道に及ぼしていたが、児玉さんの不在を察するや、たちまちゴミを握る掌が弛んだ。拾う神がいなくなったとたん、捨てる神がはびこる。前例があれば、皆それに従う。ゴミは連鎖的に増えていった。

――私たちは本当の親子にはなれない。でも、本当の親子にはできないことができる。そうでしょ?
幻の娘の誘惑は甘く、切なかった。偽りの親子を演じれば、なおさらにマナミちゃんが欲しくなった。このままホテルへ行ったら、彼女は安藤氏を「パパ」と呼び、生活の援助を求めてくるだろう。この誘惑に乗ったら、高くつくに違いない。とはいえ、実の娘がいたら、もっとお金がかかっていただろう。娘がいない人生といる人生は全く違う。もうひとつの人生の夢を垣間見させてくれるなら、マナミちゃんの誘惑に乗らない手はない。しかも、本当の親子にはできないことができる。こんな殺し文句を彼女は一体何処で身につけたのだろう。

詩人は職業ではなく、賢人とか愛人とか暇人とか変人とか老人と同じように、人の生き方や特性のことだ。実際、長居古風は紛れもなく暇人だったし、愛すべき変人だった。昔は誰かの愛人をやっていたし、その知識は特殊だったけれども、賢人の部類に入る老人だった。

独房の壁テレビには外界の幻影しか映らなかったが、何の不足があるだろう。終身刑の受刑者には外界の現実など毒にしかならないし、そもそも外界の現実を映すテレビなどこの世には存在しない。だから、男は一人、自らの妄想を耕して、心地よい幻影の果実を収穫すれば、生きてゆけた。たとえ、外界に暮す身であっても、大抵の者たちは外界とはむやみやたらに交わらないものだ。常に気分を中庸に保っていられるような、加工された現実に抱かれている。その意味では、終身刑の男と郊外に暮す主婦はそれほどかけ離れた存在ではない。

そうやって外界の幻影を受信しながら、男は感情や判断力を使って遊んでいた。そうしなければ、言葉が枯渇し、神経が閉じられ、脳がしぼんでゆく気がした。独房に暮しているはずの自分まで幻影に限りなく近くなってゆき、ついには婚約者や息子のように壁の染みに戻ってしまうのではないかと思った。男は絶えず、幻影と対話し続けなければならなかった。自分の声を聞くこと、自分の足で狭い部屋を大きく歩き回ること、呼吸数や心拍数を数えることを日課にし、自分が消えてしまわないよう努めた。