カフカ『ある戦いの描写』

「思い出にふけっていられるんですかね、そうなんでしょう?……」と、私は声をかけた。「思い出すってことは、とにかく悲しいものですよ、思い出されるほうだってそうなんでしょうがね。……まあ、そんなものにあまり夢中にならないでくださいよ。そいつは、あなたにとっても無駄骨だし、私の役にもさっぱり立ちませんからな。思い出なんかにこったりしてると、わかりきった話なんですがね、どうしても現在の立場というものを弱めますね。といって、過去の状態をしっかり確実なものにしてくれるわけでもないんですからな。もっとも、以前のことなんか確認する必要もない、と言うのなら話は別ですがね」

まもなく行われる殺人の現場から二百歩ほど離れたところで、自分のすることだけを見て、聞いている、この巡査の存在が私にある種の不安をいだかせたのは事実だ。――刺し殺させるか、それとも逃げだすか、どちらにしても私に関する限り結末がそこでつくことは確実といえる。だが、なまじ逃げだしたところで、かえって、ぎょうさんな、苦痛の多い死にざまをするだけ考えものだ。この死に方がすぐれている理由を即座にあげるわけにはいかなかったが、何も私に残された最後の瞬間をいたずらに理由さがしなんかしてすごさなくてもいいだろうさ。そうする決心さえもつなら決心はちゃんとついてるわけだ。あとで、それをする時間はあるさ。

「どうも風景というやつは、私が考えに耽るのをじゃまして困る」と、彼は低い声で言いだした。「まるで激怒してる流れにかけられた吊り橋みたいに、私の考えごとを動揺させる。風景は美しいばっかりに、人から眺められたいのだ」「私は目をつぶって言う――水勢にさからってころがる石を底にもっている、あの河のほとりの緑の山よ、おまえは美しい
だが、山はそんなことぐらいでは満足すまい。私が目を見ひらいて眺めることを欲しているのだ。
山よ、私はおまえを愛さない。なぜなら、おまえは、雲だの、夕映えだの、だんだん高まっていく空だのを私に思い出させるからだ。それらのものはみんな、私をいまにも泣けそうにする。小さな輿なんかに乗って運ばれたひには、いつまでたっても到達できそうにもないものばかりだからだ。おまえがそんなことを身をもって示しているあいだじゅう、狡猾な山よ、おまえは私を快活にしてくれるはずの、あの遠景を見えないように妨げる。その遠景こそ、美しい眺望の中にあって到達しうる目標をさし示してくれるものなのだ。それゆえにこそ、私はおまえを愛さない。河のほとりの山よ、私はおまえを愛さない」

「ああ、ただ人々から眺められるのが、まあ、言ってみれば、ときどき祭壇の上へ自分の影を投げかけるのが私にはおもしろいだけなんですよ」
「おもしろいんですって……」と、私はききかえして、眉をひそめた。
「知りたいとおっしゃるなら申しますが、それとも違います。いま、まちがった言い方をしたりしましたが、どうか、お気を悪くなさらんでくださいよ。おもしろ半分じゃなくて、むしろ欲望のほうです。他人に見られることによって、自分を小一時間しっかり鍛えあげようという欲求ですね。そのとき、この町ぜんたいが自分の周囲にある……」

考えこんだおかげで、私はひとりでに泣きやめた。
「いまは夜だ。だから、いま私がなにを言ったところで、明日になってだれもとがめるわけにはいくまい。私が言ったことは、眠ってるあいだに語られたことかもしれないからだ」

「私たちが何について語り合おうと、まったく自由ですからね。私たちはべつに目的や、真理ではなくて、ただ冗談と楽しみを手に入れたいのです」

「もうたくさんだ!」と、彼は叫んで、小さな固いげんこつでベンチをなぐりつけたが、すぐなぐることだけはやめた。「だが、あなたは生きている。自殺はしないわけだ。あなたを愛してる者なんか、ひとりもおりませんよ。あなたは何ひとつ手に入れることはできないんだ。たった今、あなたは勝手なまねなんかできなくなるんですよ。あなたは私へそんな話をしかけてくる。俗物だな。人を愛することなんか、あなたにできてたまるもんか。あなたを昂奮させるものは、不安だけなんだ」

まるで私たちの不安がすべてのものをうす暗く塗りつぶしてしまったようなのだ。もう前から朝がたの光と風には気がついていたのだが、それでもまだ私たちは小さな部屋の中にいるような気分で、山の上にすわりつづけていたわけなのだ。お互いにちっとも好感なんか抱いていないくせに、あいかわらず私たちはいっしょにくっついている。というのも、あんまり壁が堅固に張りめぐらされているみたいな気がして、お互い同士、遠く離れようと思っても、さて、そいつができかねるのだ。ところで、いまは人間らしい尊厳なんかなしに、ばかげたふるまいを勝手きままにやってのけてもかまわないんだ。なぜって、頭の上の枝や、お向かいに立っている来のやつにたいして、なにもこちらから恥ずかしがる必要なんかなかったから。