ドストエフスキー『白痴』

「頭を刀のすぐ下に据えて、その刀が頭の上をするすると滑って来るのを聞く、この四分の一秒間が何より恐ろしいのです。いや、これは僕の空想じゃありません、実際いろんな人がそう云って聞かせたんです。僕はこの話をすっかり信じていたのだから、隠さず君に僕の意見をぶちまけてしまいますが、殺人の罪で人を殺すのは、当の犯罪に較べて釣合いの取れないほどの刑罰です。宣告を読み上げて人を殺すのは、強盗の人殺しなどとは比較にならぬほど恐ろしい事です。夜、森の中か何処かで、強盗に斬り殺される人は、必ず最後の瞬間まで救いの希みをもっています。そういう例がよくあるんですよ。もう咽喉を断ち切られていながら、当人はまだ希望を抱いて、逃げ走るか助けを呼ぶかします。この最後の希望があれば十層倍も気安く死ねるものを、そいつを確実に奪って了うのじゃありませんか。宣告を読み上げる、すると金輪際遁れっこはないと思う、そこに恐ろしい苦痛があるんです。これ以上つよい苦痛は世界にありません」

「しかしちょいちょい見ると、婦人達は腹を立てているらしい、無論シガーのことです。一人の方は鼈甲の柄附眼鏡を取り出して、じっと人を睨み付けるじゃありませんか。私はそれでもまだ平気です。だって何も云わないんですからね!ちょっと何とか云って注意するとか、または頼むとかすれなよさそうなもんじゃありませんか、ちゃんと人並みの舌を持ってるんですもの!ところが、やはり黙り込んでいる……すると不意に――しかも予告なしに、いいですか、それこそ一言の予告なしに、まるで気でも違ったように――明るい水色の婦人が輪aつぃの手からシガーを引ったくって、窓の外へ放り出しました。汽車はどんどん走る、私は馬鹿みたいな顔をしてぼんやりしていました。野蛮な女ですな、実に野蛮な女です、全く野蛮な階級から出たものに相違ありません。しかし大柄の女で、肥った背の高い金髪婦人で、頬ぺたは赤く(実際あんまりだと思われるくらいでした)、眼は私の方を向いてぎらぎら光っていました。こっちは一ことも物を云わずに、驚くべき慇懃、完成されたる慇懃、所謂洗練されたる慇懃さをもって二本指w出して狗に近寄り、優しくその首筋を掴んで、シガーを投げたばかりの窓から放り出しました。ただ一こときゃっと鳴いたばかり!汽車は遠慮なく走りつづける……」

様々な物思いの中に、彼はまたこういう事も思って見た、彼の癲癇に近い精神状には一つの段階がある(ただしそれは意識の醒めている時に発作が起こった倍ゐのことである)。それは発作の来る殆どすぐ前で、憂愁と精神的暗黒を逼迫とを破って、不意に脳髄がぱっと焔でも上げるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時に物凄い勢いで緊張する。生の直覚や自己意識は殆ど十倍の力を増してくる。が、それはほんの一転瞬の間で、忽ち稲妻の如くに過ぎて了うのだ。そのあいだ智慧と情緒は異常なる光をもって照らし出され、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、諧調に充ちた歓喜と希望の溢るる神聖な平穏境に、忽如として溶け込んで了うがように思われる。しあkしこの瞬間、この光輝は、発作が始まる最後の一秒(一秒である、決してそれより長くはない)の予感に過ぎない。こお一秒が堪え難いものであった。彼は既に健康な體に返ってから、この最後の一瞬の事を回想して、よく自問自答するのであった。即ち、この尊い自己直感、自己意識――つなり尊い至純な生活――の明光も閃光も、要するに一種の病気であり、ノーマルな肉體組織の壊滅に過ぎないのだ。とすれば、これは至純な生活どころではなく、却ってもっとも低劣な生活と云わなければならぬ。こうも考えたけれど、彼はやはり最後には、極めて逆説的な結論に達せざるを得なかった。『一體この感覚が何かの病気ならどうしたというのだ?』彼は到頭こんな風に断定を下した。『この感覚がアブノーマルな緊張であろうと何であろうと、少しも構うことはない。もし結果そのものが――感覚のその一刹那が、健全な時に思い出して仔細に点検して見ても、依然として至純なる諧調であり、美であって、しかも今まで聞くことは愚か、考えることさえなかったような充溢と中庸と和解し、そして至純なる生の総和に合流し得たという、祈祷の心持に似た法悦境を与えてくれるならば、病的であろうとアブノーマルであろうと、少しも問題にならない!』
漠としたこの思想はまだまだ極めて脆弱なものであったが、彼自身にはこの上なく明瞭であった。とまれこれが真に『美であり祈祷』であり、また至純なる生の総和である事について、彼は露疑うことが出来なかった、またそのような疑念をさし挟む余地がないように思われた。実際これは、理性を腐蝕させ霊魂を賎劣にするハッシシュや阿片や酒が原因となったアブノーマルな非現実的幻影が、夢のように彼を襲うたのとは訳が違う。これは病的な状態が終わった後に健全な頭脳をもって、彼が判断し得た所である。つまり、こうした一刹那の感じは、自己意識の異常な緊張である――もしそれを一語に言い現す必要があったならば――自己意識であると同様に、最高の程度に於ける直截的な自己直感である。もしその一刹那に――つまり発作前、意識の残っている最後の瞬間に、『ああこの一瞬間のために一生涯を投げ出しても惜しくはない!』とはっきり意識的に云う暇があるとすれば、勿論この一刹那は全生涯に値すると云はねばならぬ。
尤も、自分の議論の弁証的方面には、彼も余り力を入れようとしまかった。ただ心内の暗く鈍ったような痴愚の感じが、この『至純なる刹那』の明白な結果として、彼の前に立ち塞がるのであった。無論彼とても、むきになってこんな事を人と議論などしないだろうが、しかしかれの結論には――つまりこの一刹那の評価には、疑いもなく誤謬があったに相違ない。がやはりそう何と云っても、この感触の現実的な事は幾分かれを当惑さしたのである。全く現実に対しては何とも仕方がないではないか?何と云ってもこれは実際にあった事なのだ。何と云っても彼は実際そうした一刹那に、『今自分の感じる限りなき幸福のためには、この一刹那を全生涯に代えてもいい。』と云うだけの暇があったではないか。

創意の欠乏ということは世界各国いたる処に於いて、昔から今日に至るまで常に事務的人物、実際的人物の第一の資格、最良の美点てされている。少なくも九十九パーセントまでの人は(しかもこれは一ばん少なく見つもった数である)、常にこうした思想の下に行動しているので、ただ残りの百分の一が、いつも別様の見解を抱いていたし、また抱いてもいる。
発明家とか天才とかは世に出て暫くの間は(また大多数晩年に至るまでも)、社会で馬鹿とよりほかには見られないのが、殆ど常態だった――これはもはや余りに決まり切った見方で、誰にもアレ知らない者はない。例えばこの数十年間、誰も彼もが自分の金を銀行へ運び込んで、四分の利息で何十億かの金を積み上げているが、もし銀行というものがなくて、皆がてんでに自分が事業を始めたなら、これら数十億の大部分は株式熱や、山師の手に掛かって消えて了はなければならぶ筈だ――が、それでもやはり礼譲と道義の要求という事になっていた。全く道義がそれを要求したのである。かくの如く、道義に適った臆病と礼譲に適った創意の欠乏とが、今日まで一般の意見通り、しっかりした事務的人物の偉大なる資質だとすれば、余り急に変わった人間になるのは、単に秩序を破る事になるのみならず、無作法な事にさえもなるだろう。

「信用は一般人心の結合とか、利益の平均とかいう結果を与えてくれますよ。」とプチーツィンが注意した。
「ただそれだけです!なんらの精神的根拠も持たないで、ただ個人の利己心と物質的必要ばかり満足させようとするんでがすね?一般の平和、一派の幸福は、ただ必要という事から割り出されるんでがすね?失礼ですが、私の解釈は間違っておりませんでがしょう、あなた?」
「そうです、実際生き、飲み、たべるという共通の要求と、それから万人の協力、及び利益の結合なしには、これ等の必要を満足させる事が出来ないという、確固たる科学的信念、これなどは将来人類の憑據すべき見解となり、『生命の源泉』となり得るに十分強固な思想だと考えます。」と熱中したガーニャはむきになって弁じた。
「飲んだり食ったりする必要は、単に自己保存の感情でがす……」
「しかし、一たい自己保存の感情は、そんなに小さなものでしょうか?自己保存の感情は、人類自然の原則ですよ……」
「あなたは誰からそんな事を聞きました?」と突然エヴゲーニイが叫んだ。「原則という事は、そりゃあ本当です。しかし自然かも知れませんが、破滅の法則が自然なのと同程度です。或いは自己破滅の法則かも知れません。全体、自己保存にばかり人類自然の原則があるものでしょうか?」

「公爵は美が世界を救うと言っておられます!ところで、僕はこう言います、公爵がそんな遊戯的な思想を抱いているのは、恋をしてるからです。諸君、公爵は恋をしていられます」

「実際この男は何か言おうとしたものらしいが、心ばかり逸ってもやはり……『告白』が出来なかったのだ」と言うかも知れぬ、余はこれを恐れる。とはいえ、余は一言こう付け加えたいと思う――あらゆる天才の思想、もしくは新人の思想、否、むしろどんな人間の頭脳に生じたものにしろ、あらゆる真面目な思想の中には、どうしても他人に伝えることの出来ないようなある物が残っている。これがために幾巻の書を書き綴っても、三十五年間自分の思想を講義しても、常にどうしても自分の頭蓋の中から出て行こうとせぜ、永久に自分の内部に止まっているような何物かがある。そうして、人々は自分の思想ちゅう最も重要なものを、誰にも伝えないで死んで了うかも知れないのだ。

『余は自分に対して裁きを認めない、したがって、今あらゆる法権の外に立っている。いつぞやこんな事を想像して、おかしくて堪らなかった。ほかでもない、もし余が突然いま誰彼の用捨なく、一度に十人くらい殺してみようと考えついたら――なんでもいい、とにかくこの世で一ばん恐ろしいとされている事を、実行してみようと考えついたら、僅か二週間か三週間の命と限られて、拷問も折檻も役に立たない余を相手にする裁判官の窮境はどんなものだろう?余は注意ぶかい医者のついているお上の病院で、楽々と目をつむるだろう。きっと自分の家より暖かくて、居心地がよいに相違ない』

『何かしら全体としての宇宙の調和とか、もしくはオウラスマイナスの法則とか、或いは何かの対照とか――そんな物のために、取るに足らぬ余の原子の生命が必要なのだろう。それはちょうど数百万の生物が残りの全世界を維持するために、毎日自分の生命を犠牲に供しているのと、同じ理屈である(もっとも、この思想もそれ自身としては、余り度量の立派なものでないことを指摘しなければならない)。しかし、それもよかろう!こうして絶え間なく互いの肉を噛み合わなければ、世の中を形作ることが絶対に不可能だということは、余も別に異存はない。それどころか一歩進んで、お前はその宇宙の組織に就いて、少しも知る所がないのだと言われても、余は別に不服をとなえはせぬ。しかしその代わり、次の事実は確かにしっかり心得ている。一旦「われ生けり」という自覚を与えられた以上、世の中が過ちだらけであろうと、またその過ちなしには世の中が立って行けまいと、そんな事は余に取ってなんの係りもありゃしない。これが真実であるとすれば、誰だって余をかれこれ非難する筋は一つもないのだ!人はなんと言おうと、そんな事は不可能でもあり、不公平でもある』

『全体人間という奴は、自分たちが神を了解できない腹立ちまぎれに、自分たちのけちな観念を神様に押し付けて、神様をつまらないものにしてしまうのだ』

『ああ、もう沢山だ。余がこの辺まで読み進むとき、もうきっと陽が昇って、「天に響き渡り」、偉大な量り知れない力が宇宙に漲るだろう。それもよかろう!余はこの力と生の源泉を直視しながら死ぬのだ、生は欲しくない!もし余が生まれない権利を持っていたら、こんな人を馬鹿にしたような条件では、存在を肯んじなかたtに違いない。しかし、余はもう命数の定まった人間であるけれど、まだ死ぬ権利を持っている。権力も小さい、従って叛逆もまた小さい』

『告白』は遂に終わった。イッポリトは始めて口をつぐんだ。
こうした極端な場合には、破廉恥なやぶれかぶれの露骨さが、恐ろしい迄に拡大されるものだ。神経質な人間は無闇にいらだって自分を忘れ、果ては何人をも恐れぬようになり、どんな醜態でも演じ兼ねない心持になる、いや、それどころか、そんな事をするのが却って愉快にさえなり、人に飛びかかったりするものである。しかも、その際漠としたものではあるが、しかし確固たる目的を心中に抱いている――つまり、その醜態を演じるとすぐ、高い塔から飛び下りて、もし何か面倒ないざこざが起こったら、死をもって一挙に解決してしまおうという目算なんである。こうした心的状態の兆候は普通の場合、次第に募ってくる肉体力の消耗である。今までイッポリトを支えていた異常な、殆ど不自然な緊張はこの頂上に達した。ただ打ち見たところ、病気に腐蝕されたこの十八歳の少年は、枝からひしがれて慄えている一枚の木の葉同様弱々しかったが、一時間ばかり経って始めて傍観者の群を見廻すや否や、なんとも言えぬ高慢な、人を馬鹿にした、腹立たしげな嫌悪の表情が、その眼附にも微笑にも浮かんできた。彼は急いで戦いを挑もうとしたが、聴衆は悉く不平不満であった。人々はいまいましそうな様子で、騒々しく卓から立ち上がった。疲労と酒と興奮とは、一座のだらしない光景を、いな、言い得べくんば、穢らわしい光景を強めたかのようである。

『自分の傍で、熱い太陽の光線を浴びている微々たる蝿は、どれもどれもこの宇宙の合唱の一員として、己の位置を知り、愛し、そして幸福なのである。』一本一本の草も常に成長し、かつ幸福である。一切の物に己の道があり、一切の物が己の道を心得ている。そして、唄とともに去り唄とともに来る。しかるに、自分一人なんにも知らなければ、なんにも理解できない、人間も分からない、音響も分からない、全てに縁のない除け者である。ああ、もちろん彼はこうした疑惑を言葉に現すことは出来なかった。彼は聾のように、唖のように苦しんだのである。しかい、いま彼は当時の自分がこうした考えを、すっかり同じ言葉で語った事があるように思われた。で、あの『蝿』の感想も、イッポリトが当時の自分の言葉と涙の中から取って来たような思いがした。彼はそうと固く信じ切っていたので、そのためになぜかしら心臓の鼓動が烈しくなって来た……

『わたしの言葉を病める心の感激とお思いなさらないで下さいまし。あなたはわたしにとって完全そのものでございます!わたしは毎日あなたを見ました、今でも見ています。けれども、わたしゃあなたを批判なぞいたしません。批判などで、あなたが完全そのものであるという信念に達したのではございません。わたしはただ信じたのでございます。けれども、わたしはあなたに対して申し訳ない事があります。ほかでもございあmせん、わたしはあなたを愛しているのでございます。実際、完全というものは愛される筈のものではございません。ただ完全として眺めるべきものでございます。そうではありませんか?ところが、わたしはあなたに惚れ込んで了いました。愛は人間を平等にすると申しますけれど、ご心配下さいますな、わたしは人に見せない心の底ですらも、あなたを自分と等しなみには考えていません』

世間には一言もって全豹を蔽うようなことの言い憎い人がある。それは通常『世間並』の人とか、『多数』とかいう言葉をもって呼ばれる人たちで、これが事実上あらゆる社会の最大多数を形造っている。文学者はその小説や物語において、概ね社会の典型を取って来て、それを成型的に芸術的に表現しようと努める――その典型は、そっくりそのままでは現実に発見し憎いが、とにかく現実そのものより遥かに現実的なものである。

実際のところ、金があって、家柄も相当で、容貌も十人並、教育もあり、利巧でもあり、おまけに人も好くていながら、これという才もなく、どこという変わった所――よしや偏屈という種類のものであろうとそれすらもなく、自分の思想もなく、純然たる世間並の人間である程口惜しい事はない。財産もある、がしかしロスチャイルドの富はない。家柄もれっきとしているけれど、別に有名なという程のものではない。顔も十人並以上ではあるが、表情はいたって少ない。教育もしっかり受けていながら、使い道が分からない。分別もあるが、自分自身の思想を持っていない。情もあるけれど、寛大と迄は到らない。どこまで行ってもこんな風である。こういう人たちは世の中にうようよしている、吾人の想像しているよりもずっと多い。彼等はすべての人々と同じく、二種類に分別される。一つは浅薄で、も一つはそれより『ずっと賢い』。第一の方は比較的幸福である。浅薄な平凡人は、自分こそ非凡な独創的人間であると、。容易に苦もなく信じて、なんらの動揺もなくその境遇を楽しむ。

人間の動作の原因というものは、普通われわれが後になって説明するよりも遥かに複雑多様なもので、はっきりとした輪郭を帯びている場合は稀である。で、ときとしては、単なる事件の記述にとどめて置くのが、説明者にとって最も有利な場合がある。

「わたしはお前の口から、そんな事を聞こうとは思わなかった。」と夫人は悲しそうに言った。「婿としてちっとも話にならない人だって事は、わたしも承知していおます。そしていい塩梅に、ああいう風になってしまったけれど、お前の口からそんな言葉を聞こうとは、思いがけなかった。お前からは、もっと別な事を待ち受けていました。わたしはね、昨夜の連中をみな追ん出してしまっても、あの人一人だけは残して置きたい。あの人はそういう風な人なんですよ!」