トルストイ『幼年時代』

本気になって理屈を言ったら、なにひとつ遊びなどなくなってしまう。が、遊びがなくなったら、その時はいったいなにが残るのだろうか?……

かれが私の心に呼びさました、はげしい愛着の気もちのほかに、かれがそばにいると、私はそれに劣らずはげしい、もう一つの感情をあじわった、それは、かれを悲しますまい、なにかで気を悪くさせまい、きらわれまいという恐怖だった、あるいは、かれの顔が高慢な感じだったためか、それとも、私が自分の容姿をさげすんで、他人の美貌という長所をあまりにも高く買っていたためか、それとも――これが一番事実に近いだろう――それが愛に必然的な特徴だったためか、私は愛情と同じ程度に、恐怖を感じていた。

私は生まれてはじめて愛の裏切りをし、はじめてその感情の甘美さをあじわった。私は手あかのついたなれきった愛を、神秘と未知にあふれた新鮮な愛の感情にとりかえるのがうれしかった。その上、心がわりをすると同時に愛しはじめるのは、つまり、以前より二倍強烈に愛しはじめることなのだ。

その連中がママのことをしゃべったり、泣いたりする権利がどこにあるのか?なん人かは、私たちのことを話すときに、みなしごなどと言った。母親のいない子どもがそんな名で呼ばれることは、この連中に教えなければ、わからなかったとでも言うのか!あの連中はきっと、自分たちが最初に私たちをみなしごと呼ぶのが、いい気もちなのだろう、たいていの場合、結婚したての若い女性を、いそいでまっ先に奥さんと呼ぼうとするものだが、まったくそれと同じだ。

虚栄は心底からの悲しみにもっともそぐわない感情だが、それと同時に、この感情は非常に強く人間の本性に巣くっているので、この上もなく強い悲しみでさえ、それを追いはらうことはごくまれである。虚栄は悲しみの中では、悲しんでいるように見られたいとか、不幸に見られたいとか、気丈に見られたいという気もちなって現われる。そして、この低劣な欲望は、われわれが自分で認めはしないが、たいていどんな時でも――この上もなく強い悲しみの時でさえ――われわれから離れず、悲しみの力と、尊厳と、誠実さを奪ってしまう。ところがナターリア・サービシナはこの不幸にあまりにも深い打撃を受けていたので、心の中には、なに一つ欲望が残っていなかった、そして、かの女はただ習慣にしたがって生活していた。

はげしく愛することのできる人だけが、はげしい悲しみもあじわうことができる。しかし、やはり愛の欲求が悲しみの解毒剤となり、その人たちをいやしてくれる。fだから、人間の精神的な本性の方が、肉体的な本性より生命力に富んでいる。けっして悲しみのために死ぬことはないのだ。

幼年時代 (岩波文庫)

幼年時代 (岩波文庫)