森鴎外『ヰタ・セクスアリス』

人間は容易にさめた意識をもって子を得ようとはかるものではない。自分の胤の繁殖に手をつけるものではない。そこで自然がこれに愉快を伴わせる。これを欲望にする。この愉快、この欲望は、自然が人間に繁殖をはからせる詭謀である、餌である。こんな餌を与えないでも、繁殖にさしつかえのないのは、下等な生物である。

Cynicという語はギリシャのkyon犬という語から出ている。犬学などという訳語があるからは、犬的と言ってもいいかもしれない。犬がきたないものへ鼻を突っ込みたがるがごとく、犬的な人は何物をもきたなくしなくては気が済まない。そこで神聖なるものは認められないのである。人は神聖なるものを多く有しているだけ、弱点が多い。苦痛が多い。犬的な人にあってはかなわない。

僕の書いたものは、多少の注意を引いた。二三の新聞に尻馬に乗ったような投書が出た。僕の書いたものは抒情的なところもあれば、小さい物語めいたところもあれば、考証らしいところもあった。今ならば人が小説だと言って評したのだろう。小説だと勝手に決めて、それから雑報にも劣っていると言ったのだろう。情熱という語はまだなかったが、あったら情熱がないとも言ったのだろう。衒学なんという語もまだはやらなかったが、はやっていたらこの場合に使われたのだろう。そのほか、自己弁護なんぞという罪名もまだなかった。

僕はどんな芸術品でも、自己弁護でないものはないように思う。それは人生が自己弁護であるからである。あらゆる生物の生活が自己弁護であるからである。木の葉にとまっている雨蛙は青くて、壁にとまっているのは土色をしている。草むらを出没する蜥蜴は背に緑の筋を持っている。沙漠の砂に住んでいるのは砂の色をしている。Mimicryは自己弁護である。文章の自己弁護であるのも、同じ道理である。僕は幸いにそんな非難も受けなかった。僕は幸いに僕の書いた物の存在権をも疑われずに済んだ。それは存在権の最もおぼつかない、知的にも情的にも、人に何物をも与えない批評というものが、そのころはまだ発明せられていなかったからである。