村上龍『コックサッカーブルース』

そういう無意味な説得をしていると、ファシズムの到来が待ち遠しくなる。戦後民主主義で育った連中というのはオレも含めて暴力的な上下関係でモノゴトを決するのをいやがる。だからと言って日本には本当のロジックはないから、説得は時間とエネルギーの消費量によってその成否が決まるという一種の拷問的な状況となってしまう。

ラーメンの屋台が店閉まいを始めていて、オレは深い失望を味わった。もしラーメンが食えなかったらどうしよう、とそればかりを考えていたので、こういう結果になったのだ、と思った。
いやな予感を持ってはならない。

「お前さ、くやしくないか?」
「あんたが殴られたから?」
「違うよ、オレ達、何もしてないんだぜ、何かしたか?」
ミツコはじっとオレを見て、微笑んだ。唇の端に小さなくぼみができるだけの、おだやかな微笑みだった。
「それは、違うのよ、あたし達は、いつも何かしてるの」
「え?何のことだ?」
「無実ではいられないの」
「何だよ、宗教的だな」
「そうじゃないわよ、何もしてないなんてことはあり得ないのよ、通り魔に殺される人だっているし、飛行機が落ちて死ぬ人だっているけど、何か、あるのよ、うまく言えないけど、あたし達は、罪を犯してるの、あたしはそう思うの、いつも誰かを傷つけてるし、その人はうんと遠くの人かも知れない、それがゆっくりと回ってきて、突然姿を現すことだってあるのよ」
「お前ってさ」
「何よ?」
「よくわかんないけど、マザー・テレサみたいだな」
そう言うとミツコはクックッと鳩のように笑い、顔をさらに近づけてオレにキスをした。
「さっき言ったこと、今度元気になった時にもう一度言ってくれよ」
「どうして?」
「もっとよくわかりたいんだ」
「いいわよ」
オレ達はもう一度キスした。

缶ビールは、状況に関係なくうまかった。良い陽射しの下では常に缶ビールはうまいものだ。少し安心した。当然のことを確認できれば人間は安心する。

苦笑の次は、抽象だ。愛人問題から世界平和まで、面倒があると男はみなそういう風に話を展開する。

それまでとは違う、トーンを落とした声で、よしこれからはリアルでシリアスな話にしようという感じだった。一種の開き直りで、苦笑、抽象、の次にそれが来ることになっている。

「ケチというのとは違うんだ、ケチってのは金を貯めるとか倹約するとか意志があるわけだろ?こいつはただだらだらと面白くないように面白くないようにと願って生きてるのさ」

「ヒロミは優しい子供だった、自分が好きな人の誕生日を全部憶えているような子供だったですよ、それが変わっちまった、自分の子供が変わっちまうのは恐ろしいことですよ、それでわたしは忘れようとして、自分の子供じゃなかったと思うようにしたんだけれどね、あんた自分をだますのは難しいもんでね、わたしはトキコの腹からヒロミが生れたのを知ってるから、トキコが他の男と間違いをしてできた子供だとそう思うことにしたんだけれども、だからあんたらにした話はわたしの心の中では本当のことなんですよ」

オレもカプセルを飲んでしまった。おばあちゃんのクスリ、貴重・高価の教えがからだに染みているせいもあるが、何でもいいからやってみないと勝沼のような人間達の世界に入っていけない感じもした、本郷広美にいつまでたっても近づけない気がしたのだ。
「ヒロミのいたクラブって、まだあるんですか?」
だいたいこの事件にしても、スケベなくせに自分で金とリスクを払って楽しもうとせず、その世界を金儲けの手段にしていたってことに罰が下ったかも知れないのだ。

「これは、否定神学は、神を否定するわけではない、とんでもおまんこだ、神への規定を否定していくんだ」