三島由紀夫『夜会服』
幸福というものは、そんなに独創的であってはいけないものだ。幸福という感情はそもそも排他的ではないのだから、みんなと同じ制服を着てはいけないという道理はないし、同じ種類の他人の幸福が、こちらの幸福を映す鏡にもなるのだ。なればこそ、大安吉日の午後七時ごろの湘南電車は、あんなに多くの新婚組を載せて、お互いの為の幸福の鏡の役目をさせて、幸福を何十倍にも増殖させてくれるのである。
こんな小さなことでも、二人が全く同じ時に、同じことを連想していて、しかもそれをお互いに口に出して確かめ合わないでもわかるというのは、何という恵まれた瞬間だろう。すでに二人は、旅へ出てから、何度か同じ経験をしていた。それは自然な共感でもあったが、同時に、外国へ出ると、日本人としての共通の体験の積み重なりが同じ反応を示すこともありがちで、二人は将来は、きっとハワイにおける共通の体験から、二人にしかわからない同じ連想を、何度もくりかえして飽きないことだろう。
「どう?うまく行ってる?」
とそれとなく水を向けられると、
「もちろん」
と陽気に逃げてしまった。結婚したとたんに、実の母にまで、虚栄心を働かす自分になってしまったのだ。結婚とは、人生の虚偽を教える学校なのであろうか。
絢子はじゅんじゅんと説明した。俊男を怒らせないためには、あまり夫人の肩を持ってはならず、しかも嫁として、決して夫人を悪く言ってはならず、俊男の母である人を悪しざまに言っては逆効果になるので、それはいわば、家が崩れ落ちて材木にはさまれた人間を助けだすような、むずかしい、微妙な、冷汗のにじむ作業だった。話しているうちに絢子はだんだん自分の頭が澄んで、独楽のようになめらかに動きだすのを感じた。もう夫人から雌狐の話をきいたときの咄嗟の子供らしい嫉妬などは、どこかへ行ってしまっていた。目の前にいるのは、男らしい端麗な顔をしている青年だが、実は、怒りにかられて自分を失っている一人のわがままな男の子にすぎなかった。「妻」という名の大人びた心理は、女の中にこうしてはじまるのだ、と絢子は感じた。
「俺は今の言葉で言えばスーパーマンを夢みていたんだ。実際、俺は今の青年のうちで、誰よりもよく誰よりも広く物を知り、誰よりも有能な人間だと信じているよ。しかしだんだん、自分の教養も、あらゆる能力も、結局、金で買われたものにすぎない、と思うようになったんだ。もし俺が貧乏な家に生れて、自活したり、親を養って行かねばならぬとしたら、万能の人間になる暇なんかなくて、なるべく早く金になる一つの能力だけを身に着けようと努力するにちがいない。現代では万能な人間なんか、金と余裕の演じるフィクションにすぎないんだ」
「そういう俺の、そういう万能の知識や万能の能力が、人にちやほやされ、受け入れられる場所はどこだと思う?日本ではどこにもない。ヨーロッパだったら、それが社交界というものなんだ。僕は要するに、社交界的な人間なのかもしれない。
おふくろは俺のそういう気持をよく察していた。そこで少年時代から、俺に日本の、西洋の小さな真似事にすぎない社交界の真似事を教えたんだ。俺は十六歳になるとタキシードを着せられたもんだよ。
なるほど、今きいたことを今忘れてしまう社交界の生活では、会話が豊富で何でも知っている人間ほど歓迎されるものはない」