ツルゲーネフ『父と子』

アルカーヂイはペテルベルグのニュースをいくつか話したが、しかし彼はすこし間の悪さを感じていた。それは子供であることをやめたばかりの青年が、いままで自分を子供として見なれ考えなれている人たちのところへ、もどってきたときに感じる間の悪さであった。彼は必要もないのに話をひきのばしたり、「お父さん」ということばをさけたりした。一度などは「おやじさん」ということばさえ使ったが、さすがに歯と歯の間からおし出すような言い方であった。彼はわざとおおまかな態度を見せようとして、酒も自分のほしいと思うよりもずっと多く注いで、それをすっかりのみほしてしまった。

はじめのうちアルカーヂイの声はふるえていた。彼はおのれの寛大さを感じながら、それと同時に自分の父親になにか説教めいたことを述べているのを意識した。しかし人間は自分自身のことばのひびきにつよく影響される。アルカーヂイは最後のことばをはっきりと、むしろ効果をそえて語った。

むかしはわかい人たちは勉強しなければならなかった。教養のない人間と言われたくなかったので、いやでも勉強したものです。ところが、いまは「世のなかのことはみんなばかげてる!」と言いさえすれば、それで上首尾なのだ。だからわかい者は大喜びです。実際、まえには彼らはただのばか者だったが、いまでは急にニヒリストになってしまった。

時というものは、よく知られているとおり、とぶ鳥のように、はやくすぎさることもあるし、虫のはうように、のろいこともある。しかし、時のすぎるのが早いか遅いか、それに気づくこともないような時期に、人はとりわけて幸福なのである。

「もし気にいった女があったら――と彼はよく言っていた――ものにするように努めるがいい。だめなら、そのままそっぽをむいてしうまでだ。世間はひろいからな。」
オヂンツォーヴァは彼の気にいった。彼女のことで世間にひろまっているうわさ、自由な、とらわれのない思想、彼にたいするうたがう余地のない好意――すべては彼にとって有利なもののように見えた。しかし間もなく彼はこの婦人を「ものにする」ことはできないということをさとった。ところが、われながらおどろいたことには、そのままそっぽを向いてしまう力がないことに気づいたのである。彼女のことを思い出すたびに、彼の血はもえたつのであった。

卑俗なものの出現はしばしば生活に益をもたらすことがある。それはあまりにつよく張られた絃をゆるめ、思いあがった気もちや、おのれを忘れがちな感情をしずめるものである。こういう感情も卑俗なものととなり合わせのものだということを、思い出させるからである。

ぼくが言いたかったのは、あの連中のことだ。つまり、ぼくの両親のことだ。いつもいそがしくて、自分がとるにたりない存在だなんてことはちっとも気にしていない。なんとも感じていないのだ……ところが、ぼくは……ただ倦怠と憎悪を感じるだけだ。

――見たまえ――いきなりアルカーヂイが言った――かえでのかれ葉が枝をはなれて、地面をさしておちてくる。あの動きかたが蝶のとぶのによく似てるだろう。ふしぎじゃないか?もっとも悲しむべき、そして生命のないものが、もっとも快活な、生き生きしたものと似ているなんて。

――すてて行った、わしらをすてて行った――と彼はつぶやくように言った――すてて行った、。わしらといっしょにいるのがたいくつなのだ。もうひとりぼっちだ。この指とおなじようにひとりぼっちだ!――と彼は幾度かくりかえしながら、その度に人差指を一本だけ立てた片手を前の方へつきだすのであった。
そのとき、アリーナ・ヴラーシエヴナがそばへよってきて、自分のしらが頭を夫のしらが頭にもたせかけて言った。
――仕方がありませんよ、ヴァーシャ!むすこというものは、切りはなしたパンきれみたいなものだからね。あれはたかとおなじなんですよ。気がむけば、とんでくるし、また気がかわれば、行ってしまう。わたしたちは、まるで木のうろに生えたきのこみたいに、並んでしっと坐ったきり、動くこともできないんですからね。でもわたしだけは、いつまでもあなたのそばにいますよ。あなただってそうでしょう。
――ヴァシーリイ・イヴァーノヴィッチは頭から両手をはなして、自分の妻を、自分の友を抱きしめた。それは若いときでさえなかったほどつよい抱擁であった。彼女は悲しみにしずむ彼をなぐさめてくれたのである。

彼女はなんとなくあどけない表情で泣きはじめ、自分のなみだをみずから笑うのであった。愛する女の目にうかぶ、このようななみだを見たことのない者には、人間がこの地上において、感謝と恥じらいに消えいるような感じをおぼえながらも、どれほどまでに幸福でありうるか、ということがわからないのである。

君たち貴族連中は上品なあきらめか、それとも上品な興奮以上には、進めないんだからな。これではどうにもならないさ。たとえば、君たちはけんかしない。それで自分をえらい人間だと思ってる。ところが、ぼくらはけんかしたいんだ。そうなれば、ぼくらのほこりが君の目にはいるし、ぼくらの泥が君の着物をよごすだろう。君はぼくらの高さまで成長していないんだ。君は思わず自分に見とれて、自分をののしっていれば、気もちがいいんだろうが、ぼくらにとっては、それはたいくつなことだ。ぼくらには相手が必要なんだ。相手をやっつけることが必要なんだ。君はいい青年だが、やっぱり骨のない、自由主義的な貴族の若だんなだよ、ぼくの親父のいうヴォラトゥ(――それっきり)だよ。

――力はある――と彼は言った――力はまだそっくりのこっている。ところが死ななくちゃならない!……これが年寄なら、すくなくとも生活から離れてゆくひまがあるわけだが、おれは……一つ死を否定してみようか。死の方でこっちを否定するばかりだ、それっきりだ!