三島由紀夫『人間喜劇』『ツタンカーメンの結婚』『頭文字』『寶石売買』

『人間喜劇』

絶望は卑怯な方法である。目前の不幸なり困難なりにぶつかって絶望するとき、人はもし絶望しなかったら更にぶつかったであろう一層大きな不幸や困難から身を守るのだ。絶望する者は結局、不幸や困難を愛することを知らないのだ。そして絶望と妥協した範囲だけの不幸や困難を愛するのだ。そのとき彼は、絶望そのものにだけは絶望しえない自分を見出すだろう。なぜなら絶望という前提を取り除いたら彼の現在の存在理由はなく、また同時に絶望によってしか現在の存在理由を失わしめえないと考えるとき、彼は新たな第二の絶望のために何らかの行動の原理をたのまざるをえないだろう。それが他ならぬ希望ではあるまいか。

「おぢいさんはこの世の何もかも決して滅びない。必ず蘇る、と仰言るのですね。不幸や悲しみの滅びないことを信じる人だけが、幸福も滅びないことを知ることができるわけなのね。おぢいさんが御自分の目が二度と明かないとおわかりになったとき、おぢいさんの目は内へむかってぱっちりと明いたのですね。わたしおぢいさんのお傍にいるとこの世では奇蹟の他に何一つ起こらないような気がするの。をばさんやおきぬさんのやさしい御心、報いを求めない御心づくし、こうして乏しいなりに安楽な毎日、何もかも奇蹟だことね」

一人一人が自分だけは獣でないと思っている。そのとき以上に人が獣である瞬間が他にあろうか。人間の自覚が、この人たちを獣に変えてしまったのだった。

ツタンカーメンの結婚』

「わが国王!わが君主!わが天守!わが日輪!」貢物に添えられた書翰はこのような輝かしい佞言にはじめられ、その身自らを奴隷と卑めるかぎりない屈従の言葉で結ばれた。

『頭文字』

渥子は十八にしては際立って大人びて髪なども長かったので、少尉は世にも美しい人だと思った。その日以来、人が恋と呼ぶような感情を、少尉はひとつひとつ自分の心に当てはめてみた。そのどれにも渥子はふさわしくないように思われ、それだけで少尉は自分は恋をしていないと決めてしまった。しかし恋をしていないと決めてかかると、渥子の記憶は要の外れた扇のようにあやふやなものになった。それが耐えられなかったので、今度は無理にも少尉は、「恋をしている」と自分に信じこませようと考えた。恋のはじめに誰しも経験することであるが、自分の心に対してたえず見栄を張る必要から、自ら選ばない感情は恋とは考えず、自ら選んだ感情だけを恋と考えたがるあのあやまちに、少尉も陥っていたのであった。

『寶石売買』

「あなたの番頭みたいな口の利き方をうかがっているとへんな気持になるわ」と幸子が口を挟んだ・「人に頭を下げるのが面白くてたまらないという御病気なのね」
「事実面白くてたまらないんです。頭というものは内側を使うよりも外側を使ったほうがずっと利潤が上るということがわかりますからね。尤も僕の先祖たちは、一生のあいだ頑として両側とも使わないで済ませたのですけれど……」