三島由紀夫『春子』『サーカス』『蝶々』『親切な男』

『春子』

私の年頃は一体にそうなのだが、しじゅう自省に追っかけられているようでいて、その実自分をみつめるのが女の顔をみつめるくらい生理的に怖いのである。自分の中に「自省している自分」の後姿をみつけ出すと、ようやく安心して悩みはじめるという寸法だ。

『サーカス』

「貴様は全く見下げ果てた奴だ。こんな立派な仕事をしておいて金をもらって、その仕事を卑しいものにしてしまうのだからな」
Pは卑屈な笑い方をした。そんな卑屈な笑い方に対して、団長が、まだ見たこともない苦渋に充ちた共感の表情をうかべたのをPは気づかなかった。
「ともあれサーカスは終わったんだ」と団長は言ったのである。「俺もサーカスから逃げ出すことができるんだ。『王子』が死んでしまった今では」

『蝶々』

廿代、彼は一人の女も苦しめていないという晴れやかな傲った確信があった。卅代、彼は自分の傍らにいつも苦しんでいる妻を見たのだった。すると廿代にそれと知って犯したさまざまな罪のない遊戯が、ひとつひとつ過失であり過誤である気がしてきた。廿代の彼は、悪いと知っていてするならば、すべて善であると確信していたのである!一人一人の女を心おきなく酔わせたものは、この若々しい誤てる確信そのものであったかもしれなかった。

『親切な男』

彼が時代に順応した実行家であれば女に潔癖であることが強味であるべきを、時代おくれの遊び人でありながら、女道楽もできないのは、箸にも棒にもかからないということではあるまいか。政治家の父から時代に対する鋭敏な感覚をうけついでいる晃子は、終戦後の世の中になまぬるい芸術愛好家は生きる余地がなく、金に強いか、仕事に強いか、女に強いか、つまり強度の情熱をもった人間だけが生きる権利をもっているのを感じていた。無秩序な時代、いわゆる混乱期には、何らかの情熱を発見したものだけが自分の生きる力を支えうるのだと感じていた。

「まあ僕はね、人の世話を焼くことで自分の寂しがりをごまかしているんですよ。女の人に対して寂しがりやらしい顔なんか見せませんよ。お互いに必要だという意識は、お互いを辛くさせるだけじゃありませんか?」
この時の朝倉の表情を後になって幾度か晃子は思いおこした。それを手がかりに何かを探り出そうとする自分を感じる。あの時、朝倉は逆説を用いて、晃子が朝倉に必要である所以を告白したのではなかろうか。