三島由紀夫『盗賊』
男には度々見るが女にはきわめて稀なのが偽悪者である。と同時に真の偽悪者も亦、女の中にこれを見出すのはむつかしい。女は自分以外のものにはなれないのである。よいうより実にお手軽に「自分自身」になりきるのだ。宗教が女性を収攬しやすい理由は茲にある。
牡丹が花をひらいたように、彼女の中に残忍な本能がめざめた。それは調練の本能である。
明秀が美子を代えがたいものに思う事が烈しくなれば烈しくなるほど、彼はますます少ない報いで心足りた。それを彼は彼女への尊敬の念が育ってゆく證據だと思っていた。S高原の毎日とことかわり、彼は彼女をうっとりと眺めて数十分いるだけで、十日間の幸福を仕入れる事ができた。ついには電話でその声をきいただけで、一日中夢心地にすごせるように陶冶された。
女の中に時としてめざめるこの強い衝動的な調練の本能には、却って屈折した服従の心理が、敗北への欲求がひそんでいるのではなかろうか。望みどおりのおとなしい家畜が出来上がると、その時かあ見るのもいやになって、彼女は家畜を放逐する。彼女はその調練をくぐりぬけてくる一個の屈強な、危険きわまりない猛獣の出現を待っているのである。
そういう笑い方さえも綿密な意識の計算に基づいていることを彼の心は一方で執拗に主張していた。しかし計算は、解答を求めるという明白な目的をもっている筈なのに、そんな笑い方に何ら意図された目的があろう筈はなかった。むしろ彼は意識に追いかけられ、意識があとから一つ一つ彼の行動をなぞってゆくのだった。あくまで彼の一挙一動は無意志であったろう。この無意志をなぞる意識の追求を人は死神という名で呼んだのであった。
人間の想像力の展開には永い時間を要するもので、咄嗟の場合には、人は想像力の貧しさに苦しむものだった。直感というものは人との交渉によってしか養われぬものだった。それは本来想像力とは無縁のものだった。
「何のために生きているかわからあにから生きていられるんだわ」――彼女は寧ろこう言いたかったのだ。『私と藤村さんとは何のために生きているかはっきり知ってしまったから死ぬのだが、もしかしたらそれが現在の刻々を一番よく生きている生き方かもしれない』と。
宗久が姉の口から出た警句を耳にしたのはこれがはじめてだった。しかも月並な警句にすぎなかった。彼は落胆した。姉からこんな言葉を聴く筈ではなかった。――ふと彼は薄暮のなかで姉の口もとに見なれない皮肉な微笑がちらつくのを見た。