トーマス・マン『魔の山』

「私をしていわしむればですな、辛辣とは、暗黒と醜悪の力に対する理性の武器、最も優秀な武器なのです。辛辣は、あなた、批評の精神です。そして、批評は、進歩と啓蒙の根源なのです」

「音楽は時間を目ざまします。音楽はわれわれを覚醒させ、時間をきわめてデリケートに享受させるのです。音楽が時間を目ざましめるかぎり……それは倫理的です。目ざましめるかぎり、芸術というものは倫理的なのです。しかし、もし芸術がその反対のことをやったらどうでしょうか。人間を麻痺させ、眠りこませて、活動や進歩の邪魔をするとすれば。音楽にはそれもできるのですよ。音楽は麻酔剤の作用を及ぼす術もよくよく心得ているのです。あの悪魔的な作用を、皆さん。麻酔剤は悪魔的だ、それは鈍感と頑固と無為と奴隷的停滞を惹き起す。……音楽にはいかがわしいところもあるのです」

遺憾なことに、性格の特性を表現する名称は、それが賞める意味のものであろうと非難する意味のものであろうと、一般に道徳的判断を含んでいるものである。しかし性格にはつねに二つの面があり、ハンス・カストルプの「誠実」も、格別彼がそれを自慢していたわけではなかったが、善悪の道徳的判断を離れていえば、彼の鈍重で緩慢で持続的な気質、つまり一種の保守的な根本気質からきているものであって、そのために彼は、ある状態なり境遇なりが長く続けば続くほど、それを愛したり維持したりする価値もあると思うのであった。それにまた、彼には自己の現状や現在の制度がかぎりなく続くものと信ずる傾向があり、そのためにそれらを尊重しこそすれ、それらが変化することは望まなかった。

待つとは、さき回りするということであって、時間や現在というものを貴重な賜物と感じないで、逆に邪魔物扱いにし、それ自体の価値を認めず、無視し、心の中でそれを飛び越えてしまうことを意味する。待つ身は長いというが、しかしまた、待つ身は、あるいは待つ身こそは、短いといってもよかろう。つまり長い時間を長い時間としてすごさないで、それを利用せずに、鵜呑みにしてしまうからである。ただ待つだけの人は、消化器官が、食物を栄養価に変えることができないで、大量に素通りさせてしまう暴食家のようなものだ。もう一歩進めていえば、むろん純粋にただ待つだけで、そのほかに何ひとつ考えもしなけえば行動もしないというようなことは、実際にはありえないにしても、消化されない食物が人間を強くすることができないと同様に、ただ待つことだけに費やされた時間は、人間に歳をとらせないともいえる。

女性にとって情熱とは、生来それに慣れない男性にとってよりもずっと身近なものであり、だから男性がそれに手を焼いているのを見ると、冷笑や意地悪い喜びを禁ずることができない。もっとも男性にしても、女性からそのことで同情や心配を押しつけられたりすれば、かえって有難迷惑ぐらいには思うかもしれない。

「平地で夏があるいは冬がくると、前の夏か冬が終ってから、夏と冬がぼくたちにふたたび新鮮な喜ばしいものに感じられるだけの時がたっている、それが生命欲をささえてくれるのだ」

健康に原則としていっさいの名誉を与え、病気をできるだけ卑しめ軽んずる、――この考え方にはたしかに、注目すべき、ほとんど称賛すべき自己無視が認められる、セテムブリーニ氏自身が病気なのだから。しかし彼の考え方そのものは、その並々ならぬ気品によっても、誤っていることになんの変りもない。その考え方の生じた起源は、肉体の尊重崇拝であるが、これは肉体が堕落の状態にはなくて、神によって作られた本来の状態にある場合にのみ正当とされるであろう。なぜならもともと不死に作られながら、肉体は原罪による自然の堕落によって、よこしまな嫌悪すべきもの、死すべきもの、腐敗すべきものとなり、魂の牢獄と獄吏に見られるほかはなく、聖イグナツィウスもいったように、羞恥と困惑の感情をよびさますだけのものになってしまったのである。

私たちの言葉が、もっとも敬虔なものから非常に肉欲的、衝動的なものにいたるまで、さまざまに考えられる事態のすべてをいい現すのに、愛というひとつの言葉しか持っていないのは、結構なすばらしいことではないだろうか。こういうことは、一見曖昧に見えても、実はまったく明瞭なことなのである。なぜなら、愛というものはもっとも敬虔な愛でも肉体を離れてはありえないし、どんなに肉体的な愛であっても、そこには一片の敬虔さがあるからである。

「この世で最高にして究極の、そしておそろしいほどに隠微をきわめた問題、つまり、肉と魂の問題は、そう、たしかにまた最も通俗的な関心事でもあって、これなら誰にもわかるし、誰もが、これに苦しんでいる者、そのために昼は欲望に責め苛まれ、夜は汚辱の地獄に堕ちる人間を嘲り笑うことができるんです。カストルプさん、ねえ、カストルプさん、少しは泣き言をいわせてくださいよ、夜ごと夜ごと、まあどんな思いでいることか。毎夜のように私は彼女の夢をみる。ああ、私は夢に彼女をみないことがない。咽喉の奥や胃のあたりが焼けそうだ。そしていつもその夢は、彼女が最後に私の頬を、顔をひっぱたき、ときには唾を吐きかえるところでおしまいになるんです。――魂の玄関口ともいうべき顔を、見るのもいやだというふうに歪めて、彼女は私に唾を吐きかける、そこで私は汗と汚辱と快感にまみれて眼をさますんです……」

正義などというものは俗衆の単なる修辞的空言であるということは自明の理である。いざというときには、何よりもまずその意図する正義のなんたるかを弁えなくてはならない、つまり、各人にそれぞれの権利を与えようとする正義なのか、それとも、万人に平等の権利を与えようとする正義なのか、と。