三島由紀夫『金閣寺』

鏡を借りなければ自分が見えないと人は思うだろうが、不具というものは、いつも鼻先につきつけられている鏡なのだ。その鏡に、二六時中、俺の全身が映っている。忘却は不可能だ。だから俺には、世間で云われている不安などというものが、児戯に類して見えて仕方がなかった。不安は、ないのだ。俺がこうして存在していることは、太陽や地球や、美しい鳥や、醜い鰐の存在しているのと同じほど確かなことである。世界は墓石のように動かない。

それにしても死者たちは生者に比べて、何と愛され易い姿をしていることか!

「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが何の役に立つかと君は言うだろう。だがこの生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだと云おう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐えるという意識なんかないからな。認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以って耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ」

火は藁の堆積の複雑な影をえがき出し、その明るい枯野の色をうかべて、こまやかに四方へ伝わった。つづいて起こる煙のなかに火は身を隠した。しかし思わぬ遠くから、蚊帳のみどりをふくらませて焔がのぼった。あたりが俄かに賑やかになったような気がした。
私の頭がこのときはっきりと冴えた。燐寸の数には限りがある。今度は別の一角に走って、一本の燐寸を大切にして、別の藁の一束に火をつけた。燃え上がる火は私を慰めた。かねて朋輩と焚火をするとき、私は火を起すのが巧かったのだ。
法水院の内部には、大きなゆらめく影が起った。中央の弥陀、観音、勢至の三尊像はあかあかと照らし出された。義満像は目をかがやかせていた。その木像の影も背後にはためいた。熱さはほとんど感じられなかった。賽銭箱に着実に火が移るのを見て、もう大丈夫だと私
は思った。