欅坂46「不協和音」発売記念個別握手会@幕張メッセ

全国握手会は何度か参加してきたが個別握手会は初参加。第三部(14:00受付開始14:30握手会開始)なので割とのんびり。とはいえ二部終了後に石森虹花生誕祭があるというので生誕祭というもの一度見てみようかと早めに行ければなと。思ってはいたが、なんだかんだゆっくりになってしまい、極めつけは会場のホールを事前に調べておかなかったら珍しく9ホールで、しばらく1〜8ホールの中うろうろする羽目になり結果生誕祭には間に合わなかった(ホール着いたら丁度終わって解散のアナウンスしてるとこだった)。もうちょっと計画的に、余裕もって行動しなければと思った。
前の部から参加していたかげきちさんとお会いして生写真トレードしていただく(不協和音菅井ヨリinサイマジョ志田チュウout)。ありがたや…。生写真とかって自引きしてこそと思ってたけどこういうやりとりも楽しいもんだなあと思うようになってきた。
三部開始前には握手待機列が出来ていてひるみ、しばらく眺めてたんだけどまあ待ってても仕方ないかと開始後に並び、ほどなく到達。例によって絵を見せてみたものの、特に面白いリアクションが得られる題材でもなく、「お上手ですね」と言われるのみで(もちろんその反応も喜ばしいものではあるんだけど)、なんだか振り出しに戻った感じがあった。握手会のたびにコミュニケーションとういうものについて考えてしまうんだけど、自分の絵を見せることに固執しすぎて相手の反応について想像力が足りてない気がした。双方向であるべきなんだし、どうせ見せるならイイ反応もらえるような絵を描きたい(描いた中から選びたい)と思った。
その後は生誕カードや生写真トレードを軽く眺めて退出。しかし三部終了後に影山優香生誕祭あり菅井さんなんかも出てきたと後から知り、残って見てけばよかったかと悔いる。
帰りは西千葉に寄り鈴木書房でマルセル・プルースト失われた時を求めて』、ジョージ・マクドナルド『リリス』、ボードレール『人工楽園』、トーマス・マン『マリオと魔術師』、コクトー『大胯びらき』(5冊200円)。

松本清張『神と野獣の日』

評論家は、この事態について書きはじめた。もとより、その論文が水爆の爆発と同時に灰になることは承知していたが、彼は書かずにはいられなかった。このときほどその評論家は、仲間ぼめや義理づくの八百長や、自己顕示を放擲したことはなかった。彼は、今こそ自分のために論文を書いていた。
いや、書くことによって彼は自分の発狂を防ごうとしていた。彼はその論文の中に、今まで蓄積していたあらゆる哲学者や思想家の言葉を思いだしてちりばめた。しかし、精神の平衡を失った彼の論理は、よく読んでみると、日ごろに似合わず--いや、日ごろでも多少そうだったが--支離滅裂であった。

人間には、それぞれの生き方があった。絶望とわかったとき、その仕事に打ちこむことで、すべての恐怖を忘れようとする一群もいた。あるいは、そのことによって、発狂を防ごうというつもりでもある。
絵描きは新しい制作にかかっていた。屋内に残っている画家は、気に入った壺に花を入れて、克明にデッサンからはじめていた。屋外に出た画家は最期の東京を写生していた。カンバスにていねいに下図をとり、チューブをパレットに撒いたが、おそらく、その下塗りが終わるか終わらないうちに、彼自身も芸術も断絶するにちがいなかった。
しかし、絵描きはコンテを動かし、チューブを塗りつけていた。
詩人は、人類最期の詩を作っていた。
学者はおびただしい蔵書の中に埋もれて、日ごろ読み残していた本を手当たりしだいに出して読みふけっていた。彼は、読んでいるうちに新しい学説の着想を得たので、すぐにそれをメモにとった。異常心理の場合は、ふだんにない脳作用が起こるとみえる。しかし、時間があまりに残り少なくなっていた。この学説は彼とともに陽の目を見ないで永遠に埋没するわけだった。

遺書を残す手段があれば、まだ死と対決できたかもしれない。死後、自分の意志を他人に通じておくことで心が休まるからである。
宗教家は、死に対する哲学をつづることができる。芸術家は死の寸前に、人間がどのような思考方法をめぐらすかを書きのこせる。小説家は文章をかき、詩人はうまい詩が作れる。画家もまた、この死の街の一瞬をスケッチにして、後世の絶賛が期待できる。
つまり、読まれる手段が残されていたら大なり小なり、彼らは死後の自己顕示が可能なのである。そのために、遺書は当人を崇高化させるのである。