トーマス・マン『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』
人生はなるほど、私たちがその素晴らしさゆえに何が何でもしがみつかなければならないような最高の財宝というあけでは決してないが、私たちに課せられた、いわばみずから選び取ったーー私にはそう思えてならないのだがーー困難で厳しい課題と見なされなければならない。その課題を忍耐強く誠実に持ち堪えるのは、無条件で私たちの義務であり、時が来る前にその課題から逃亡するのは、疑う余地なくふしだらな行いを意味するのだ。
微妙で定め難いものについては、微妙に定め難く語れと言われる。ここに追加の観察を慎重に挟もうと思う。本来幸福というものは、人間同士の結び付きの両極においてしか見出されない。すなわち視線と抱擁の中にである。そこでは、まだ言葉がないか、もはや言葉がない。そこに幸福があるというのは、無拘束と自由と秘密と深い没頭はそこにしかにからである。その中間にある交際や遣り取りは、すべて退屈で生温い。儀礼的な形式と市民生活上の取り決めによって定められ、拘束され、制限されている。そこでは言葉が支配する。ーーこの鈍くて冷たい手段、従順で凡庸な礼儀作法の最初の産物。これは、熱く沈黙した自然の領域とは本質的に無縁なので、言葉はそれ自体、言葉であることによって、既に月並みであると言えるだろう。
私が兵士のように生きるとして、だからと言って兵士として生きるべきだと思ったりしたら、それは間抜けな誤解であっただろう。そう、自由というような崇高な心の財産を理性のために定義し整えることが重要であるとすれば、正にこう言えると思う。兵士のように、しかし兵士としてではなく。比喩的に、しかし文字通りにではなく。比喩の中で生きるのを許されるということが正に自由を意味するのである。
「貧乏は恥ではない」とよく言われるが、貧乏は恥でしかない。なぜなら金持ちにとって貧乏ほど不気味なものはないからだ。半分は汚点、半分は正体不明の非難、総じて嫌悪の的。貧乏と掛かり合いを持つと大変な結果になりかねない。
「これまでしてこられた旅の中でも、一番遠い旅かな?」
「しかし僅かな距離でもあります」、私は、質問には直接答えずに言った。「この先私の前に控えている全行程と比べれば」
生命は一つのエピソードに過ぎないと聞いて、生命を愛しく感じると、あなたは言われたが、あなたはその言葉で最も人間的なものを言い当てられたのである。すなわち、はかなさは価値を下げるという大方の物言いとは違って、全ての存在に価値と尊厳と愛らしさを付与するものこそ、まさにそのはかなさなのだ。エピソードに過ぎないもの、始まりと終わりを持つものだけが、興味深い。それだけが、あるがままのはかなさによって魂を吹き込まれ、共感を呼び起こす。
博物館とか展覧会では、こういうことになりがちである。見るものが多過ぎるのだ。たくさんある中から一つ二つの対象に没頭した方が、精神と感情にとってはずっと収穫が多いだろう。一つの展示物の前に進んだ時すでに、視線はもう他の展示物の方に彷徨い出てしまっている。その魅力が目の前のものへの注意力を迷わせる。
しかし自然が、体を覆う鎧をどんどん破りにくくすることによって、捕食者に対して餌の肉を護ろうとしたのなら、なぜ同時に敵の顎と牙を強くし続けたのだろうか。自然は両者に味方し、ーーそしてどちらにも味方しなかったのだ。ただ両者を揶揄い、それぞれの可能性を極限まで推し進めた所で、見捨てたのである。自然の思惑は何か?何も思惑などありはしない。そして人間も、そういう自然に対して何も企むことはできない。
この夫人が私を怖気付かせ、同時に、人を怖気づかせるまさにその特性によって私を魅了したことを、私は否定しない。陰鬱なまでに尊大なこの人となりは、給料暮らしの学者の妻としての立場に全くそぐわないものだった。そこには純粋に血筋による、どこか動物的でそれゆえの刺激作用を持つ、人種的な自負心が働いていた。
「自分の美を見せびらかしながら、美を話題にするのは悪趣味だわ」