アラン『幸福論』
私の理屈は詭弁であるが、自分は正しいように思われる。そしてよく、私は頭がいいなどとうぬぼれるものだ。興奮ではこんなに苦しまない。恐怖を感ずれば逃げてしまって、そうすればあまり自分のことは考えない。しかし恐怖を感じたという恥ずかしさは、もしそれを人にとがめられたなら、怒りまたは理屈に変化するだろう。とりわけ、たった一人で、しかも特に夜、休息するほかない時など、自分で自分の恥ずかしさを考えてみる――これはたまらない。
微笑は気分に対してはものの数ではなく、効果がにように思われる。だからわれわれは、少しもそれをやってみようとしない。けれども礼儀というものは、しばしば微笑やしとやかな挨拶を引きよせて、すべてを変化させるものである。生理学者はその理由をよく知っている。思うに微笑というものは、あくびと同様に深く下までおりて来るものであって、しだいにのどや肺や心臓をゆるやかにする。医者は薬箱の中に、こんなに早く、こんなにぐあいよくきくものを見つけられはしないだろう。ここで想像力は、想像力が生みだす病気に劣らずほんものであるところの鎮静作用によって、われわれを苦痛から救い出してくれる。それに、のんきなふうをする人は、首をすくめることを知っている。これはよく考えてみると、肺を掃除し、あらゆる意味で心を鎮めるものである。心ということばにはいくつもの意味があるが、心臓は一つしかないのである。
求めるものは得られる。若い者はこの点を考え違いして、棚からぼた餅の落ちるのを待っている。ところが、ぼた餅は落ちてこない。ほしいものはすべて山のようなものだ。先方で待っており、こちらではまちがいなく行きつくことができる。しかし、よじ登らなければならない。
デカルトいわく、優柔不断は、もろもろの悪のうち最大なるものであると。彼はこのことを、一再ならず言っているが、決して説明はしない。私は、人間の本性に関するこれ以上の洞察を知らぬ。あらゆる情念の無益な衝動が、すべてこれによって説明される。一六勝負というものの力は、人間の魂よりも上にあって、その下にいてはよくわからないものであるが、その一六勝負がおもしろいのは、決定する権力を保持しているからである。それは、事物の本性に対する挑戦のようなもので、いっさいのものをほとんど平等におき、われわれの細かい思案を際限なく育てるものである。賭け事においては、いっさい厳密に平等であり、選択することが必要なのだ。この抽象的な危険は、反省に対する侮辱のようなものである。秘薬することが必要だ。賭けはただちに答える。そして、われわれの思想を毒するあの悔恨などというものは持ちようがない。理由がなかったのだから、悔恨だって持てるはずがない。規則の知りようがないのだから、《もしわかっていたら》などと言うこともない。賭け事が倦怠に対する唯一の療法であることを、私は意外に思わない。倦怠とは、思案するのがむだなことをよく知りながら、思案することだから。
女にほれて眠れないでいる男とか、欺かれた野心家とかが、なんで苦しんでいるのか考えてみるがよい。この種の不幸は、まったく肉体のなかにあるとも言えるが、まったく思惟のなかにあるのだ。眠りを追うこの興奮は、何事をも決定しないで、そのたびに肉体のなかに投げこまれ、陸に上がった魚のように肉体をじたばたさせるところの、あの無益な優柔不断からのみ生ずるのである。優柔不断のなかには暴力がある。《もうおしまいだ。何もかもめちゃくちゃだ》しかし、思惟がただちに調整手段を提供する、その両方の側から結果があらわれるが、決して少しも進歩しない、真の行動の利益は、しなかった決心は忘れられるということである。正しく言えば、もうその理由がないということだ、行動がすべての関係を変化させてしまったのだから。しかし、観念のなかで行動するのはなんにもならない。すべてがそのままの状態にとどまっている。あらゆる行動のなかには、いくらかの賭けがある。というのは、思想がその主題を汲みつくす以前に、思想を切り上げてしまわねばならないからである。