ミルトン『失楽園』

「もしお前があの者だとしたら……ああ、それにしてもその落魄した姿はなんとしたことか!その変わり果てた姿はなんとしたことか!お前が、光に充ちたあの幸福な天国で赫々たる光輝に包まれ、夥しい輝ける天使の群れを凌いでいたあの天使だったのか!そうだ、今でこそわたしとともに破滅の悲運に等しく沈んでいるお前だが、そのお前が、かつて血盟を結び、思いと志を一つにし、この度の偉業に対し乾坤一擲の希望を等しく賭け、運命をわたしと共にしたあの天使だったのか。そうだとすれば、なんという高い天空から、なんという奈落の底に墜ちたことか!雷霆を彼は用いたーーだから、彼の力がわれわれの力以上に強力だったのだ。それにしても、あの恐るべき武器の威力を、その場に臨むまで知らなかったとは!だが、あの武器があるから、いや、勝ち誇る彼が怒りに任せてその他の痛撃を加えうるから、といって今さら悔やんだり、また、表面の輝きこそ一変したにもせよ、あの時のあの不動の決意と憤怒こそ、わたしを駆って最強者(いとつよきもの)と一戦を交えしめ、無数の武装の天使らを激しい戦いに赴かせたのではなかったのか。思えば、彼らもまた彼の支配を憎悪し、このわたしを首領と仰いで彼の強力無比な威力に全力をあげて抗し、天の広漠たる平原において勝敗も定かならぬ激戦を交え、彼の王座を脅かしたものであった。一敗地に塗れたからといって、それがどうだというのだ?すべてが失われたわけではない――まだ、不撓不屈の意志、復讐への飽くなき心、永久に癒やすべからざる憎悪の念、降伏も帰順も知らぬ勇気があるのだ!敗北を喫しないために、これ以外何が必要だというのか?いかなる怒り、いかなる力が彼にあろうとも、わたしを取り拉ぐ栄光を彼に許すわけにはいかんのだ。膝を屈し鞠躬如として自費を乞い、わたしのこの膂力の凄まじさに恐れをなしてつい今しがた己の主権の失墜を危ぶんだ彼の力を崇めろ、とでもいうのであるか?それこそまさに卑屈というものであり、この堕地獄にもまさる不名誉かつ恥辱というものだ。われわれ神々の力とこの天来の霊質が、運命の命ずるところに従い、崩れようにも崩れえない以上、また、この度の未曾有の大事件のおかげで、武器においてさして劣らず、洞察力において遥かに鋭くなったと思われる以上、われらの偉大な敵に向かい、堂々たる武力によるにせよ謀略によるにせよ、今一度、妥協の余地のない永遠の戦いを挑むならば、あるいは、より大いなる成功の見込みなしとはいえまい。おそらく今頃、あの敵は、勝利に驕り、喜びの情に溺れ、唯一人で支配権を擅にし、圧政者として天をその掌中に収めているにちがいない」

「地獄に墜ちた智天使よ!弱いということは哀れなことだ、あえて事を行うにしろ、事を忍ぶにしろ!だが、覚悟だけはぜひきめておいてほしいのだ――今後善きことを行うことを、われわれの仕事から一切はずし、常に悪を行うことに唯一の喜びを見いだすことを。こうすることによってのみ、反抗の目標であるあの者の高き意志に、われわれは反噬することができるのだ。もしわれわれの悪から善を齎すのが、彼の摂理だというのであれば、われわれは鋭意、その目的を攪乱し、絶えず善から悪を導き出す手段を見いだすよう、努力しなければならない」

「これがわれわれの場所、われわれの土地、われわれの国なのか?」と失われた大天使は言った、「これが、あの天国のかわりにわれわれの住むべき住処なのか?この悲惨な晦冥の世界が、あの天の光輝の世界のかわりなのか?ああ、これもやむをえぬことかもしれぬ。この際、何が正当なことかを決定し命じうる者は、今、至高絶対の権をもつにいたった者に他ならぬからだ。彼から――理性においては同等なのに、力においては同等の者を制圧した彼から、遠く離れれば離れるほど最善なのだ。ああ、喜びが永久に住んでいる幸福多い天国よ、さらばだ!祝福あれ、もろもろの恐ろしきものの上に!祝福あれ、この奈落の上に!汝、無間地獄よ、今こそ、汝の新しき主を迎えよ!この主は、場所と時間の如何によって変わるような心の持主ではない。心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ、――地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ」

「絢爛たる奴隷生活の平穏無事な軛よりも、苦難にみちた自由をこそ選ぼうではないか!」

雄弁は魂を、そして歌は感覚を、魅了する

「この怪物たちは、気が向けば自分らが育まれたこの胎内に潜り込み、そこで吠え猛りながらわたしの内蔵を餌として貪り食い、そうやって元気づくと、またもや外に飛び出してきて纏わりつき、わたしを苦しめるのです。その恐ろしさは骨身にこたえ、一刻の猶予も憩の時もないのです。今わたしの眼の前にいるのが、わたしの子でもあり敵でもある、恐ろしい『死』なのです。この『死』は、怪物たちを常に嗾しかけているばかりでなく、もし他に餌がなければ、一瞬のうちに母であるわたしをさえ食べかねないのです。ただ、そうしないのは、それがいつかはともかく、わたしの終わりが、自分の終わりを意味し、わたしの肉が苦い肉であり、自分を亡ぼす毒であることを、彼が知っているからに他ならないからです。『運命』がそう定めたのです」

しばしば起こることだが、「知恵」が目覚めていても、「疑念」が「知恵」の入口で眠り込み、自分の任務を「素朴」に任せてしまうことがあり、そういう時には、「善意」は悪が歴然と現われない限り、悪意をもって見ることをしないものなのだ。

「どこへ逃げようが、そこに地獄がある!いや、わたし自身が地獄だ!深い淵の中にあり、しかもさらに深い淵が、大きな口を開けてわたしを呑み込もうとしている」

神秘に包まれた部分も、まだこの時には隠されてはいなかったが、それもまだ妙にうしろめたい羞恥心というものがなかったからだ。自然の造りだしたものを恥じる不純な「羞恥」よ、不面目きわまる「面目」よ、罪から生まれたお前たちは、またなんと永い間本物のかわりの見せかけで、うわべだけ純潔にみえる単なる見せかけで、全人類を悩まし、人間の生活から人生最高の幸福を、純真さと汚点のない清浄さとを、奪い去ってきたことか!

「苦痛を愛するなどという者が果たしてあると思うのか?たとえ呪われて地獄に堕ちたとしても、もしそ手段さえあれば、そこから脱出しようとしない者が果たしてあろうか?汝にしてもそうするにきまっている。汝自身、苦痛の場所から最も遠く離れ、呵責の代りに安寧を求めることができ、懊悩の代りに歓喜を一刻も早く味わうことができそうな所であれば、それがどこであれ、敢然として赴くにきまっている。わたしがここへ来たのもそのためなのだ。だが、善のみを知って悪の経験を持たぬ汝には、これは理由にはなるまい。汝の非難の理由は、われわれを呪縛したのが神の意志であったから、というのであるか?」

やがて東の空に「曙」が薔薇色の歩みをすすめ、大地に煌めく真珠を撒きちらしたが、その頃、アダムはいつものように眼を覚ました。健やかな消化作用とその作用に伴う穏やかで快い醞気から生ずる彼の眠りは、いわば空気のように爽やかなものであった。したがって、その眠りを醒ますのには、曙女神の扇ともいえる木の葉の擦れ合う音や、狭霧の立ちこめる細流の音や、枝という枝に戯れている鳥たちのひときわ高い朝の歌声だけで充分であった。

「イーヴよ、わたし自身の像を示す美しき者よ、愛すべきわが半身よ!昨夜、眠りの中でお前を悩ました苦悩の話を聞き、わたしもまた同じように苦しみを感ずる。お前の見たその奇怪な、――おそらく明くら生じたと思われる夢を、わたしは好きにはなれない。それにしても、その悪はどこから生じたのか。清純なものとして造られたお前のうちに、悪が宿るはずはない。だが、お前は知るまいが、人間の魂のうちには、理性をその主人として仕える多くの低次の能力があるが、その中にあって、理性のすぐ下に位置を占めているのが想像力なのだ。これが、敏感な五官が伝えてくるすべての外からの刺戟をもとにして、いろんな心象、つまり縹渺たる形象を造る。すると理性がそれらを組み合わせたり解きほごしたりして、われわれが或は肯定し、或は否定するもの、いわゆる知識や意見を形づくってゆくというわけだ。心身が休息している時、理性はその私室に退いてゆく。理性がこうやって留守になると、模倣好きの想像力がしばしば眼を覚まし、理性の真似をしはじめる。だが、その際、形象の組み合わせを間違え、奇々怪々なものを作る、――とくに、夢の中で遠い昔やごく最近のいろんな言葉や行動を闇雲に繋ぎ合わせて、そういったものを作ることが多いのだ。恐らく、お前の見た夢の中にも、われわれが昨晩話し合った話題によく似た事柄が、出てきたのではなかろうか。それにしても、それ以外の不思議なことも附け加わっていたようだ。だが、何もくよくよする必要はない。悪が天使や人間の心に去来することがあっても、それを絶対に認めない限り、あとに汚点や禍根が残ることはなかろうと思う。だから、眠っている時に見た夢を、ああ嫌な夢だったとお前が憎んでいる以上、目が覚めている時にそれをあえて自ら行うはずがない、とわたしは思うのだ。そんなわけで、イーヴよ、落胆しないでもらいたい、そして、その顔を、――麗しい朝がこの世界に初めて微笑みかける時よりももっと爽やかで静かな、いつものお前の顔を曇らせないでほしいのだ。さあ一緒に起き、森や泉の傍の花の所に行き、今日の新しい仕事に取りかかろうではないか。見るがいい、お前のためにと、夜中そっと大切に懐の奥深くしまっていた甘い香りを、今、これらの花が放っているのだ」
こう言って、彼は美しい妻の心を慰めてやった。彼女も元気をとり戻した。しかし、その両方の眼から一粒の涙が静かに滴り落ちた。彼女は、自分の髪の毛でそれを拭い去った。なおも水晶のように澄んだ眼には、今にも堰を切って落ちそうな露の玉がきらりと光ったが、まさに溢れ出ようとする寸前、彼は接吻してそれを拭ってやった。涙は、罪を犯したかもしれなかったことを恐れる、悔悟と敬虔な畏怖を示す、美しいしるしであった。

大天使ミカエルはサタンが近づくのを見るや否や、激しい攻撃の手を中断し、この敵の巨魁を一挙に亡ぼすもよし、或は捕虜として鎖につなぐもよし、とにかく、天上におけるこの内乱の決着をこれでつけうると思い、喜び勇んだ。そして、闘志満々、その眉にも顔にも烈々たる怒りを漲らせながら、次のように叫んだ。
『おお、悪の元兇よ、悪の創始者よ、悪は、汝が叛逆するまではこの天上では誰にも知られず、名称さえなかったのだ!それが今や蔓り、汝も見る通り、この憎むべき闘争となっているのだ。この闘争が、理非曲直の点からいって、汝と汝の配下に呪詛となって重くのしかかっているのは勿論としても、すべての者にとっても憎むべきものとなっている。天の祝福にみちた平和を乱し、叛逆の罪科が犯されるまでは生まれてもいなかった「悲惨」を、この「自然」に齎したのは、まさに汝ではなかったか!かつては正しくかつ忠実であった幾千幾万の者に叛意を注ぎ込み、今のような背進の徒輩にしてしまったのは、まさに汝ではなかったか!神の聖なる平安を乱そうなどと自惚れるのはよすがよい。天国はその全領域から汝を排除しようとしている。祝福の座である天国は、暴力と戦いを容認できないのだ。だから汝は、ここを立ち去るがよい、汝の子「悪」も一緒に連れてゆき。「悪」本来の住処へ、地獄へ行くがよい――そうだ、汝も汝の悪しき徒党も全部だ!騒擾を起こすなら、地獄で起こすがよい!そうだ、この懲罰の剣が断罪の裁きを下す前に、いや、なんらかの復讐の手が突如として神から放たれ、さらに激しい苦痛を与えて汝を真っ逆様に墜す前にだ!』

「アダムよ、お前は自分の仲間が欲しいらしいが、その選択にあたってなかなか微妙な幸福を念頭に置いているようだ。そして、多くの楽しみを満喫していても、自分独りでいる限り、そこにはなんの楽しみもないと言いたいらしい。そうだとしたら、お前はわたしのことを、このわたしの境涯を、どう考えているのであろうか?永遠の昔からわたしはただ独りでいる。お前の眼にわたしが幸福にみちたりていると見えているのか、どちらなのだ?わたしには、自分に次ぐ者も似ている者もいない、況や同等の者なぞはいない。だとすれば、わたしが親しく交わるものとしては、自分で造った生物や自分より低い地位の天使たちの他に、何があろうか?これらの天使にしても、わたしに劣ることまさに無限といってよく、他の生物がお前に劣っている比ではないのだ」

イーヴはそう言って、この呪われた時に無分別にも手を指しのべて果物を取り、引きちぎり、口にした。大地は気宇の痛みを覚え、「自然」もその万象を通じて呻き声を洩らし、悲歎の徴を示した、すべては失われた、と。イーヴを誑かした蛇は、こそこそともとの叢の中へ隠れてしまった。夢中で傍目もふらずにただひたすら食べ続けていた彼女は、蛇が隠れるのに気づくはずもなかった。本当に美味しかったのか、それとも、これでいよいよ知識が自分のものになるという強い期待のためにそう思い込んでいたためか、はともかくとして、彼女は今までにこれほど美味しい果物を味わったことはないと思った。神の如くなりたいという思いも、終始念頭から離れなかった。そうやってただひたすら貪婪に彼女は貪り食ったが、実は死そのものを食っているということに気づいてはいなかった。

こんな風に、イーヴは快活な表情を浮かべながら言訳をした。しかし、その頬は紅く火照り、不安の色を漂わせていた。アダムの方は、イーヴが致命的な罪科を犯したことを聞くや否や、驚愕し、茫然自失の体で立ちすくんでしまった。冷たい戦慄が彼の血管という血管の隅々を駈けめぐった。全身の関節がはずれてゆく感じであった。イーヴのために、と編んでいた花の冠が、急に萎えてしまって彼の手から落ち、薔薇の花もことごとく凋んで散ってしまった。彼は蒼白な顔をしたまま、言葉もなく佇立していたが、やがて内なる沈黙を破り、次のように心の中で呟いた。
「ああ、創造られたものの中で最も美しき者よ、神の御手によって最後に、しかも最も善き者として造られた者よ、眼に、心に、快く訴える一切の資質に恵まれた、聖なる、神々しき、善き、愛すべき、美しき秘蔵物よ!お前が失われたとは、いったいどうしたことなのだ!かくも突然お前が失われ、汚され、散らされ、今や死の呪いを受けるにいたったおはどうしたことなのだ!いや、どんな風にしてお前は迂闊にもあの厳しい禁制を破り、どんな風にしてあの禁じられていた聖なる果実をあえて犯すにいたったのか?正体はまだわからないが、恐らく敵の呪うべき詭計がお前を誑かしたに違いない。そして同時にお前と共にこのわたしまでも破滅させてしまったのだ。お前と共に死ぬ決意を固めた以上、わたしも亡びてゆかざるをえないからだ。お前なしでどうやってわたしは生きてゆけよう?お前とは固く結ばれている、そのお前との楽しい語らいと愛の生活を棄てて、この寂しい荒涼たる森の中でどうして独りで生きながらえることができよう?たとえ神がもう一人別なイーヴを造られ、わたしがそのためにもう一本の肋骨を提供するとしても、お前を失った痛手は絶対にわたしの心から消え去るまい、そうだ、絶対に消えまい!わたしは自然の絆が自分を引きずってゆくのを感ずる。わたしの肉の肉、わたしの骨の骨、それがお前なのだ。お前の境涯からわたしは絶対に離れないつもりだ、――幸、不幸いずれの場合にしてもだ!」

「今後は何人にも自分の信義を証明する無駄な口実を求めてはならない。あえてこのような証を求める者があれば、その者はすでに堕落の第一歩を踏み出していると知るべきだ!」

なぜ私は依然として生きのび、なぜ死の嘲笑の晒され、死に絶えることのない苦悩にいつまでも苛まれなければならにのか!私はあの宣告された死を一刻も早く迎え、冷たい土塊になりたい!母の膝に抱かれるように、この体を地中に横たえたい!恐らく、そこには平安と静かな眠りがあるはずだ。神の恐ろしい声が、耳もとで雷のように響くこともないはずだ。もっともっと悲惨なことが自分に、そして自分の子孫に起るかもしれないという残酷な不安に、苛まれることもないはずだ。だが、なお一つの不安が私の心を苦しめてやまない、――それは、私が必ずしも全面的に死ぬことはできないのではないかということだ。神が私に吹き込まれた生命の清らかな息吹、つまり人間の霊が、この土塊から造られた肉体と一緒に消滅することはできないのではないか、ということだ。そうだとすれば、墓か或はどこか陰惨な場所で、私は永遠に生ける死者として横たわることになるのではないのか?もしこれが真実だとすれば、考えるだけでも恐ろしいことだ!

「なぜ『死』は」と彼は言った、「私が待ちに待っているその一撃を私に加え、息の根をいっきょに止めようとしないのか?『真実』はその約束を守ろうとはしないのか?聖なる『正義』はその正義を実行するのを躊躇っているのか?私がいくら呼び求めても『死』は来てはうれない。いくら祈り求め、叫んでも、聖なる『正義』はその鈍い歩みを速めてはくれない。」

「『死』をこちらから探し求めるのです。見つからなければ、彼の役目を自分の手で自らに向かって果たすのです。最後には死ぬ他はないという恐怖に戦きながら、なぜこれ以上渡したちは生き存えようとするのでしょうか?しかも私たちには多くの死に方の中で一番簡単な方法を選び、自らの死によって死を殺す力があるのです」

「死が人間に臨む最初の姿、それを今お前は見たのだ。だが、死が装う姿は実に多様で、また人間を己の陰惨な洞穴に導くその道も実に多様だ。洞穴は不気味そのもだが、内部よりも、その入口の方が遥かに強い恐怖感を人間に与える。お前が今も見たように、或る者は非道な暴力に斃れ、また或る者は火災や洪水や飢饉のために、そしてさらに多くの者が飲食の不摂生のために、死んでゆく。この不摂生が地上に恐るべき病気を齎すからだ。そういった病気に悩む異様な患者の群れが、すぐお前の前に現れるはずだ。イーヴが自分の欲望を抑えきれなかったために、どんな悲惨事が人間の上に齎されるかを、お前もよく見ておくがよい」。忽ち、陰惨で暗くて喧しい或る場所が、アダムの眼の前に現れた。それは癩病院のように見えたが、とにかくそこにはあらゆる病気に冒された者たちが、夥しく横たわっていた。凄まじい痙攣や、拷問にも等しい苦痛や、心臓をしめつけるような苦しみの発作、などを伴うあらゆる病気にかかった患者がそこにいた。また、あらゆる種類の熱病、痙攣、癲癇、激烈な加答児、腸結石、潰瘍、疝痛、魔物に憑かれて生ずる精神錯乱、怏々として楽しまない鬱病、月にうたれて生ずる狂気、次第に痩せ衰えてゆく萎縮病、消耗症、蔓延して人口を壊滅させる疫病、水腫、喘息、関節を打ち砕くような僂麻質斯などの患者がそこにいた。病人達の七転八倒するさまは凄絶をきわめ、その呻き声は陰惨そのものであった。「絶望」が、忙しそうに、病床から病床へと駈けずり廻って病人を看ていた。「死」が、病人達の枕もとで意気揚々とその槍をふり廻していた。病人達はその一撃を何よりの贈物、最後の望み、としてしきりに哀願し、求めたが、「死」は一向にそれに応じようとはしなかった。

彼らは、ふりかえり、ほんの今先まで自分たち二人の幸福な住処の地であった楽園の東にあたるあたりをじっと見つめた。その一帯の上方では、神のあの焔の剣がふられており、門には天使たちの恐ろしい顔や燃えさかる武器の類が、みちみちていた。彼らの眼からはおのずから涙があふれ落ちた。しかし、すぐにそれを拭った。世界が、――そうだ、安住の地を求め選ぶべき世界が、今や彼らの眼前に広々と横たわっていた。そして、摂理が彼らの導き手であった。二人は手に手をとって、漂泊の足どりも緩やかに、エデンを通って二人だけの寂しい路を辿っていった。