ヘルマン・ヘッセ『おお、友よ、その調子をやめよ!』『我意』
『おお、友よ、その調子をやめよ!』
なお一言、この戦争のもとで絶望的に悩んでいる多くの人々に、また今は戦争だということによってあらゆる文化と人間性が破壊されているように思う多くの人々に、訴えたい。人間の運命が知られるようになってから、戦争は常にあった。戦争がなくなったと信じることには、何の根拠もなかった。長い平和の習慣がそう思いこませたにすぎなかった。人間の多数がゲーテ的な精神界にともに生きることができないかぎり、戦争はなくならないだろう。そうならないかぎり、戦争はあるだろう、おそらく常にあるだろう。しかし、戦争の克服は、昔も今も、われわれの最も高貴な目標であり、西洋的キリスト教的文化の最後の帰結である。悪疫に対する薬を求める科学者は、新しい伝染病に襲われても、研究を放棄しないだろう。ましてや、「地上の平和」と、善意を持っている人々の友情は、われわれの最高の理想であることを、いつの日になってもやめないだろう。人間の文化は、動物的な衝動を精神的衝動に高めることによって、恥を知ることによって、空想によって、認識によって、成立する。人生が生きるに値するということが、あらゆる芸術の究極の内容であり、慰めである。人生を賛美する人がみな死ななければならなかったとしても。愛は憎しみより高く、理解は怒りより高く、平和は戦争よりけだかいということ、そのことを、こんどの不幸な世界戦争こそ、われわれがかつて感じたより深くわれわれの心に焼きつけなけらばならない。そのほかに、戦争は何の役に立つだろう?
『我意』
報道記者が工場における作業中の事故をすべて「悲劇的」(道化師なる彼らにとってそれは「気の毒な」というのと同じ意味である)と呼ぶのは、ことばの乱用えあるが、虐殺された気の毒な兵士について「英雄の最期」と言うのは、それに劣らず不当な流行である。それは感傷的な人々、とりわけ銃後に残っている人々の好んで用いることばである。戦争で倒れる兵士はたしかにわれわれの最高の同情にふさわしい。彼らはしばしば言語に絶することをなし、苦しんだ。そしてついには一命を犠牲にした。だが、それだからと言って、彼らは英雄ではない。死の直前まで単純な一兵士であり、犬のように将校からどなられたものが、致命的な弾丸を受けたからといって、突然英雄になるわけのものではないのと同様である。大量の英雄、幾百万の英雄という観念は、それ自体矛盾である。
「英雄」は従順な律儀な市民や、義務の遂行者ではない。英雄的でありうるのは、「自分の心」を、高貴な天成の我意を自己の運命としたような個々の人間だけである。「運命と心とは同一概念の名称である」と、ドイツ精神の中でも最も深くしかも知られていない人のひとりであるノヴァーリスは言った。自己の運命への勇気を見いだすような人だけが英雄である。