スウィフト『ガリバー旅行記』

どこでも、赤ん坊のやる雄弁術というのに変わりはない。つまり、わしを玩具にほしい、というわけであった。母親は、子供のこととなると、もう、まるで目がないものだから、それで、ひょいと、わしをつまみ上げると、赤ん坊のほうへ置いた。

わしは、白状しなければならないが、この女の怪物みたいな乳房ほど、気持ちの悪いものを、これまで見たことがなかった。じつは、好奇心の強い読者諸君に、その乳房の大きさやら形やら色合いやらについての、あらましの印象なりともお伝えしたいのだが、何に譬えたらよいか、それさえ、わからぬくらいなのだ。そいつは、六フィートばかりも突起していて、周囲にいたっては、十六フィートをくだらなかったろう。乳首などは、わしの頭の半分ほどもあった。しかも、乳首といい乳房といい、どちらの色合いも、斑点や吹出物やそばかすがあるために、染め分け模様になっている。いやもう、これほど、胸の悪くなるような眺めは、またとあるものではない。なにしろ、彼女は、乳を飲ませるのに都合のよい姿勢で、椅子に腰かけていたし、こっちは、テーブルの上に立っていたので、近くから、まざまざと、眺めることになってしまったのだ。それを見て、わしは、わがイギリスの婦人たちの美しい肌を思い出した。なるほど、それは、われわれの目に、美しく見えはする。しかし、それは、ただただ、彼女らの体が、われわれと同じ大きさだから、というだけのことで、かりに欠点があっても、拡大鏡をとおして見るのでもなかったら、こっちの目にはいりっこない、というにすぎないのだ。われわれは、ちゃんと、実験して知っているが、拡大鏡をとおして見るならば、いかに、すべすべとして、雪のように白い肌といえども、じつは、肌理の粗い、がさがさした、いやな色をしているものなのだ。

真実にたいする極度の愛がなかったら、とても、このあたりの物語を、ありのままに、包み隠さずに述べられるものではないのだ。こっちの憤懣をあらわにしてみせたところで、なんの役にも立ちはしなかったのだ。なにしろ、きまって、お笑い草にされてしまうのであったから。したがって、わが熱愛する祖国が、かくも侮蔑的な扱いを受けながらも、わしは、じっと堪えて、黙っているより仕方なかった。

だが、総じて、国王というものは、世界の他所の部分からは、ぜんぜん、隔絶されており、したがって、他の諸国民のあいだに最も多く行われている風俗習慣についても、まったく無知であるほかないので、その点は、大いに斟酌してやるのが当然だと思うのだ。そうした知識を欠如しているとなると、いやでも、多くの『偏見』が生じ、また、いわば『考えかたの狭さ』といったものが生じるらしいのだ。

主人は、わしの話を聞いて。その顔に、ありありと、不安の色を浮かべていた。なにしろ、『疑う』とか『信じない』とかいうことは、この国では、ほとんど未知の事柄なので、それで、住民たちは、そうした場合、どう行動したらよいか、それさえ、わからないのだから。それに、わしは、いまでも覚えているが、主人と、たびたび、世界の他の国の人間たちの性質について話し合っているとき。たまたま、話題が『嘘をつく』とか『虚偽を主張する』とかいったことに及ぶと、主人は、ほかのことにかけては相当に鋭い判断力を持っているくせに、こればかりは、こっちのいっている意味が、ひどく理解しがたいらしかった。なにしろ、かれは、こんなふうに、論証してみせたのだから。話をすることの用途は、もともと、おれたちに、お互い同士を理解せしめ、事実にかんする知識を得さしめるところにあるのだ。それなのに、いま、もし、だれかが『ありもしないことをいった』とすれば、談話のこうした目的は、たちどころに、ぶち壊されてしまう。なぜなら、そうなれば、おまえは、その相手を理解できないことになるんだからね。また、そうなれば、おまえは、知識を得るどころか、無知よりもっと悪い状態におかれるんだからね。つまり、ある物が、『白い』色をしているのに、それを『黒い』と信じさせられたり、『長い』のに『短い』と信じさせられたりすることになるんだからね。と、このように論証してみせたわけだが、せいぜい、この程度のことが、人間社会では周知の事柄になっていて、げんに一般に行使されてもいる、あの虚言の効能にかんする、主人の観念の全部であったのだ。

おれは考えるのだが、自分の耳が、こうした忌まわしい言葉に聞き慣れているうちに、しまいには、だんだん、それほどいやだと感じなくなってしまうのではあるまいか。たしかに、おれは、この国のヤフーどもを憎んではいるけれども、しかし、やつらが醜悪な性質をもっているからといって、それだけの理由で、やつらを咎めるようなことは、もはや、したくないのだ。それは、ちょうど『ニャイー』(猛禽の一種である)が残忍だからといって、また、とげとげとした石ころが自分の蹄を傷つけるからといって、それを咎めなどできないのと、同じ理屈なのだ。しかし、かりのも、理性をもって自負している動物にして、このような極悪非道の所業ができるとすれば、理性の堕落は、獣性そのものよりも、かえって、悪いのではないか、とおれは恐れるわけなのだよ。つまり、主人は、われわれ人間というものは、理性をもっているのではなしに、生来の悪徳を助長するのに適した何かの性質を持っているにすぎぬのだ、というふうに、思いこんでしまっているらしかった。あたかも、揺れ動く水の流れに映った影が、実物よりも『大きい』だけでなく、ひどく『歪曲』された、格好の悪い影像を映し出すのと、同じことなのだ、というふうに。

じっさい、その会話の中では、必要以外のことは、何一つとして、口にされはしなかったし、口にされるほどのものは、最も簡潔で、最も意味深長な言葉によって表現されていた。その会話の中では、最大の『品位』(このことは、前にも述べておいた)が保たれていたが、しかも、儀式ばったところは、微塵もなかった。話している当人たちも楽しければ、聞いている相手のほうも楽しい、というのでなかったら、はじめから、だれも、話などしはしなかった。話の腰を折るとか、だらだらっと冗長になるとか、口角泡を飛ばすとか、意見の食い違いを来たすとか、そういったこともなかった。かれらの考えによると、なんにんかの者が集まっているときには、むしろ、ときどき、小時間の沈黙を挿んだほうが、対話の内容を向上させるものだ、というのである。こりゃあ真実だな、とわしは気づいた。というのは、そのような話の絶え間絶え間にこそ、ふっと、新しい着想が頭に浮かび出てくるのであって、それが、また、談話に溌剌たる生気を与えるのだから。