三島由紀夫『憂国』
暗いひびわれた、湯気に曇りがちな壁鏡の中に、中尉は顔をさし出して丹念に髭を剃った。これがそのまま死顔になる。見苦しい剃り残しをしてはならない。剃られた顔はふたたび若々しく輝やき、暗い鏡を明るませるほどになった。この晴れやかな健康な顔と死との結びつきには、言ってみれば或る瀟洒なものがあった。
血は次第に図に乗って、傷口から脈打つように迸った。前の畳は血しぶきに赤く濡れ、カーキいろのズボンの襞からは溜った血が畳に流れ落ちた。ついに麗子の白無垢の膝に、一滴の血が遠く小鳥のように飛んで届いた。
中尉がようやく右の脇腹まで引き廻したとき、すでに刃はやや浅くなって、膏と血に辷る刀身をあらわしていたが、突然嘔吐に襲われた中尉は、かすかな叫びをあげた。嘔吐が劇痛をさらに攪拌して、今まで固く締っていた腹が急に波打ち、その傷口が大きくひらけて、あたかも傷口がせい一ぱい吐瀉するように、腸が弾け出て来たのである。腸は主の苦痛も知らぬげに、健康な、いやらしいほどいきいきとした姿で、喜々として辷り出て股間にあふれた。中尉はうつむいて、肩で息をして目を薄目にあき、口から涎の糸を垂らしていた。肩には肩章の金がかがやいていた。
血はそこかしこに散って、中尉は自分の血溜りの中に膝までつかり、そこに片手をついて崩折れていた。血なまぐさい匂いが部屋にこもり、うつむきながら嘔吐をくりかえしている動きがありありと肩にあらわれた。腸に押し出されたかのように、刀身はすでに刃先まであらわれて中尉の右手に握られていた。