トルストイ『芸術とはなにか』

芸術のはたらきは、人間に聴覚や視覚で他の人間の心持の現れを知るとその心持を表した人が感じたのと同じ心持を感じる力があるということから来るのだ。
最も簡単な例をとると、人が笑えば他の人も嬉しくなる。人が泣けばその泣き声を聞いた人が悲しくなる。人がむっとする、怒る、そうすると他の人がそれを見てやはり同じ気持ちになる。人は自分の身振りや声の調子で元気や決心、又は逆に悲観や落ち着きを現して、その気持ちが他の人に伝わる。人が苦しんでいてその苦しみを溜息や身のもだえで表すと、その苦しみは他の人に伝わる。人が或る物や顔附や出来事に対して喜びや崇拝や恐れや尊敬の感じを表すと、他の人たちもそれに感染して、同じ物や顔附や出来事に対して同じ喜びや崇拝や恐れや尊敬の感じを持つ。
この、人間が他の人間の心持に感染する力こそ、芸術のはたらきの土台なのだ。

一度味わった心持を自分の中に呼び起こして、それを自分の中に呼び起こした後で、運動や線や色や音や言葉で現される形にしてその心持を伝えて、他の人も同じ心持を味わうようにするところに、芸術のはたらきがある。芸術とは、一人の人が意識的に何か外に見えるしるしを使って自分の味わった心持を他の人に伝えて、他の人がその心持に感染してそれを感じるようになるという人間のはたらきだ。
芸術は、形而上学者の言うように、何か神秘的な観念、美とか神とかの現れでもないし、生理学的な美学者の言うように、人間が溜まったエネルギーの余分を吐き出すための遊戯でもないし、感情を外に見えるしるしに現すことでもないし、快い品物を作り出すことでもないし、まして快感でもなくて、個人や人類の生活にとっても善に向かう運動にとってもなくてはならない必要な人間の交通の手段、人類を同じ心持の中に結びつけるための手段だ。
言葉に表された思想がわかる人間の力のお蔭で、人間は誰でも自分のために人類全体がしておいてくれた思想の領分の事をすべて知ることができるし、他人の思想がわかる力のお蔭で今すぐほかの人たちの活動にも仲間入りすることができるし、自分でもその力のお蔭で他人から教わった思想なり自分の中に湧き出た思想なりを同じ時代の人たちや後の人たちに伝えることができるように、芸術によって他の人の心持に感染する人間の力のお蔭で、感情の領分で人類が自分に対して感じたすべての事がどの人間にも伝わるようになるし、同じ時代の人たちの味わった心持も数千年前に他の人たちが通って来た心持も伝わるようになって、自分の心持を他の人たちに伝えることができるようになる。

習慣でわれわれが芸術という言葉で考えているのはただ、われわれが芝居や音楽会や展覧会で読んだり聴いたり見たりするもの、建築や彫刻や詩や小説などだけだ。これはすべて、われわれが人生で互いに交通するための手段になっている芸術のごく小部分だ。人間の生活全体は、子守唄や冗談や物真似や住居や衣服や道具類の装飾から教会の儀式や凱旋の行列まで、すべての種類の芸術の創作で一ぱいになっている。これはみんな芸術のはたらきだ。だから、われわれが狭い意味の芸術という言葉で指しているものは、心持を伝える人間のはたらき全部ではなくて、このはたらき全体のうちからわれわれが何かの理由で別に取り出してそれに特別な意味をつけているものだけだ。

上流階級の大部分の人たちは、心の底では、もう教会の教に対する信仰ををなくしていたけれども、それができなかったのは、又はしたくなかったのは何故かと言うと、教会の信仰を棄てた上は是非とも自分のものと認めないわけに行かなくなるキリスト教の世界観というものは、人間同士が兄弟でつまり平等だという教だけれども、そういう教は、上流の人たちの生活と離すことのできない特権、つまりその中で成長もし教育も受けて習慣になってしまった特権を認めないものだからだ。

美の意味は善と一致しないばかりでなく、却ってそれと反対になる。と言うのは、善は大抵の場合に感情を抑えるものなのに、美はわれわれのすべての感情の元だからだ。
われわれが美に打ち込め打ち込むほど、われわれは一そう善から離れていく。これについては人がよく、美も倫理的や精神的になる場合があると言っているのを私も知っているが、それは言葉のあやだけだ。何故かと言うと、精神的な美とか倫理的な美とかいうものは善と同じことだからだ。精神的な美つまり善は大抵の場合に、人が普通考えている美とはぴったり合わないばかりでなく、それと反対なものなのだ。

そこで例えば、ソクラテスパスカルやその他多くの人々は、役にも立たない物についての真理の認識を、善とは互いに合わないものだと考えていた。真には美と共通なところが一つもなくて、大抵の場合に真と美とは反対なものだと言うのは、真が大抵の場合にまやかしをあばき出すので、美の大事な条件になっている幻想をこわしてしまうからだ。

民衆的な芸術家――例えばギリシャの芸術家やヘブライの予言者のような人たち――が、自分の作品を書く時には、自然その作品を誰にでも呑み込めるように工夫して自分の言おうと思うことを言ったものだ。ところが芸術家が、内輪だけの付き合いをしている少人数の仲間の人たちのために、又はたった一人の日よやその取り巻きのために、法王や位の高い坊さんや国王や侯爵や女王のためや国王の可愛がっている女のために物を書く時には、自然自分の知っている或るきまった境遇にいる知り合いの人たちに利目があることばかり心がけていた。それにこの方法の方が心持を出すのに楽だものだから、芸術家は知らず知らずそれに引きずられて、皆の人にはわけがわからないけれども仲間入りの出来た人だけには意味が通じる合言葉のようなもので書くようになった。第一、こういう方法にすれば余計いろいろの事が言えたし、第二に、こういう言い方そのものには、仲間のものだけにわかる何かもやもやした特別な魅力が含まれていた。この言い方は始め体裁のいい言い回しだの神話や歴史を仄めかす品のいい言葉遣いで現したが、それがだんだん多く使われるようになって、近頃のデカダンというような芸術ではどうもその極端まで行っているように思われる。近頃はもやもやしているものだの謎だの暗闇だの民衆に寄りつけないものだのが芸術品の価値だとか詩的になる条件だとか認められているばかりでなく、はっきりしないものやくっきりしないものや舌っ足らずの物言いまでもそう認められている。

何と言っても、芸術の仕事は、理窟の形ではわけのわからない、近づくことのできないものを、わかるように近づけるようにすることだ。普通本当に芸術的な印象を受けると、それを受けたものには、それは以前身に覚えがあってただ言い表すことができなかったのだという気がする。
すぐれた高尚な芸術はいつもそういうものだった。イリアスでもオデュッセイアでもヤコブやイサクやヨセフの話でもヘブライの予言者や詩篇福音書の寓話でも釈迦牟尼の話でも吠陀(ヴェダ)の讃歌でも、非常に高尚な心持を伝えて、教育の有る無しによらず今のわれわれにも十分にわかるし、われわれの労働階級よりも教育の低かったその頃の人たちにもわかった。わからないという人もある。しかし芸術が人間の宗教心から出て来る心持を伝えるものだとすれば、宗教、つまり人間の神に対する関係を元にした心持がどうしてわからないわけがあろう。そういう芸術はいるでもすべての人にわかるに違いないし、また実際わかっていた。何故かと言って、人間の神に対する関係は唯一つだからだ。だから教会もそこにある偶像もいつでもすべての人にわかっていた。最も高尚な善良な心持をわからなくさせるものは、福音書にも言ってある通りに、決して発達が不十分で学問がないためではなくて、却って逆に、間違った発達や間違った学問のためだ。

今の上流階級の芸術は、民衆芸術から離れたものだから、内容は貧弱に形式はまずく、つまりだんだんわからなくなったどころではなく、――今の上流階級の芸術ではなくなって、芸術の偽者に取って代わられるまでになった。
そんなことになったのは、こういう原因によるのだ。民衆的な芸術が現れるのは、民衆の誰か一人が烈しい感動を受けてそれを人々に伝えたくなる時に限られている。ところが金持階級の芸術が現れるのは、芸術家がそうしたい気持ちになるからではなくて、それよりも主に。上流階級の人たちが娯楽を注文して、それにたっぷり報酬を出すからなのだ。金持階級の人たちは芸術に自分たちをいい気持ちにさせてくれと注文するし、芸術家はその注文に合わせようと一所懸命にやる。しかしその注文に合わせることはむずかしい。と言うのは、金持階級の人たちは暢気に贅沢をして暮らしているから、芸術で始終気が紛れるように注文する。ところがいくら低級な芸術でもそれをおいそれと作り出すことはできない。芸術そのものが芸術家の中に生れなければならない。だから芸術家は、上流階級の人たちの注文に合わせるためには、芸術に似たものを作り出せるような遣り口を工夫するほかない。して又それがちゃんと考え出されている。
その遣り口には、次のようなものがある。(一)借りて来る(二)似せる(三)あっと思わせる(四)釣って行く。

われわれの社会で偽物の芸術品を作り出すようになっている条件が三つある。その条件というのは、(一)芸術家がその作品を渡す代わりに受け取る相当な報酬、又それを元とした芸術家の職業化、(二)芸術批評、それと(三)芸術学校だ。

ところで芸術が職業になると、ひどく力がなくなって、芸術の主な大事な持前、つまりその本気なところを幾らかなくなしてしまった。
職業的な芸術家は自分の芸術を種に生活するものだから、始終自分の創作の事柄を工夫しなければならないし、実際またそれを工夫して行く。同じ芸術の作品にしても、それがヘブライの予言者や詩篇の作者やアッシジのフランチェスコイリアスオデュッセイアの作者やすべての民話や民謡の作者のように、自分の作品を出すだけで少しも報酬を貰わないばかりかそれに自分の名さえ付けない人たちが作る場合と、作品を渡して名誉も報酬も受けていた昔の宮廷詩人や宮廷戯作者や宮廷音楽師や、自分の腕で稼いで、新聞記者だの出版屋だの興行師だの、一般に言えば芸術家と芸術を注文する町の人々との間に立つ仲介者から、報酬を貰っている登録済の芸術家が作る場合とでは、その間にどのくらい違いがあるものかということは誰にでもわかる。

『批評家は説明する。』では一体何を説明するのか。
芸術家が本当の芸術家ならば、自分の作品の中で他の人たちに自分の味わったその心持を伝えているわけだから、そこに何の説明することがあろう。
作品が芸術としていいものならば、それが倫理的だろうと倫理的でなかろうと、その芸術家の言い表した心持は他の人たちにも伝わる。それが他の人たちに伝われば、その人たちもその心持になるし、その心持になるばかりでなく、銘々が自分なりにその心持になるから、すべての解釈は余計な事になる。ところが作品が人に感染しなければ、どんな解釈をやってもそれを感染させるわけに行かない。芸術家の作品は、解釈することはできない。芸術家が言いたいと思った事を言葉で解釈することができるとすれば、その芸術家も言葉で言っている筈だ。ところがそれを自分の芸術で言っているのは、自分の味わった心持を他の方法で伝えることができなかったからだ。芸術作品を言葉で解釈していることからしてもう、解釈する人には芸術に感染する力がないことを証明している。事実がちゃんとそうなっている。

して見ると、芸術学校というものは芸術に二つの意味で害がある。第一には、不幸にもそういう学校に入って七年なり八年なり十年なり修行することになった人たちが持っていた本当の芸術を作り出す天分を殺してしまうし、第二には、われわれの世間にはあり過ぎるほどあって民衆の趣味を台なしにしてしまう偽物の芸術を恐ろしく沢山弘めるからだ。

本当の芸術を偽の芸術と区別する疑のない特徴が一つある。それは芸術の感染性だ。人が自分の方かたは一向はたらきかけることも、自分の立場を少しも変えることもしないで、他の人の作品を読んだり聴いたり見たりして、自分もその作者と一つになるばかりでなく、自分と同じようにその芸術作品を味わう人たちとも一つになるような心持になる場合に、そういう心持を起こさせた物は芸術品だ。

ところで芸術の感染力が強いか弱いかは三つの条件によってきまる。(一)そこに表される心持が独創的なものかどうかによって、(二)その心持の表し方がはっきりしているかどうかによって、また(三)芸jつかの誠意、言い換えれば芸術家自身がそこに表す心持を味わう力、が強いか弱いかによってきまる。
表される心持が独創的なものであればあるほど、味わう人に一層強くはたらく。味わう人が入り込む気分が独創的なものであればあるほど、一層いい心持になるから、一層喜んで一層強くその気分に融け込む。
それから又、心持の表し方がはっきりしていると感染を助けるというのは、自分の心の中で作家と一つになる場合に、味わう人がずっろ前から知りもし味わってもいたのを今となって初めてそれを表して貰ったのだと思う心持がはっきり表されれば表されるほど、味わう人は一層満足するからだ。
それに芸術の感染力の強さは、何よりも芸術家の誠意の強さによって増す。見手・聴手・読手が芸術家自身も自分の作品に感染して自分のために書いたり歌ったり弾いたりしているのであって、何も他の人たちにはたらきかけるためではないのだということを感じさえすれば、芸術家のそういう気分は味わう人に感染するし、また逆に見手・聴手・読手が、作者は作者自身の満足のためでなく、自分たちつまり味わう人のために書いたり歌ったり弾いたりしているので、作者自身では表そうと思っている事を感じてはいないのだ、ということを感じさえすれば、すぐに厭な気持が起こって、いかにもその人らしい目新しい心持やいかにも上手な工夫をしても何の印象も起こさないばかりか却って撥ね返してしまう。

芸術は人間の進歩の二つの機関の一つだ。言葉によって人間は思想の上で交わるし、芸術の形によって人間は現在ばかりでなく過去や未来のすべての人間と心持の上で交わる。この二つの交通機関を利用することは人間の持前だが、そのために又その一つでも故障を起こすと、その故障の起こった社会に害になる結果を現さないわけにはいかない。ところでそこ結果はどうしても二通りになる。第一に、その社会にその機関が行うことになっている作用の停止、第二に、故障を起こした機関の害になる作用。そうして丁度こういう結果がちゃんとわれわれの社会に現れているのだ。芸術という機関が故障を起こしたので、そのために上流階級の社会は、この機関が行うことにあっている作用はを目に立つほどなくしてしまった。一方では、人々を面白がらせて堕落させる足しにしかならない芸術の偽物と、又一方では、最高なるものと思われている、つまらない、仲間だけの芸術と、この二つがわれわれの社会では非常な度合いまで弘まったために、われわれの社会に住む大部分の人の持っていた本当の芸術作品に感染する力を傷めて、そのために、人類が達した最高の心持、ただ芸術だけが人々に伝える心持を感じることができなくしてしまった。

口にするのも恐ろしい事だが、われわれの仲間われわれの時代の芸術というのはまるで、女の人が、もともと母となるために具わっている女として引きつける力を売って、そういう快楽に夢中になる人たちを楽しませるようなことになっている。
われわれの時代われわれの仲間の芸術は売春婦になっている。しかもこの譬はずっと細かいところまで合っているのだ。同じように時間の制限はないし、同じようにいつもめかし込んでいるし、同じようにいつでも買うことができるし、同じように人を誘い込んで破滅させる。
本当の芸術作品は、丁度母が子を宿すのと同じように、以前の生活の果実として、稀にしか芸術家の心に現れることがない。ところが、まがいの芸術は、注文がありさえすれば休なしに親方や職人の手で作り上げられる。
本当の芸術は、夫に愛されている妻のように、めかす必要がない。まがいの芸術は、売春婦のように、いつも塗り立てていなければならない。
本当の芸術の現れる原因は、溜まっている心持を表そうとする内から出た要求であって、丁度母にとって性的な妊娠の原因が愛であるようなものだ。まがいの芸術の原因は、丁度売春婦と同じように、欲得なのだ。
本当の芸術の結果は、生活の営みに取り入れられた新しい心持であって、女の人の愛の結果が新しい人間の出生であるようなものだ。まがいの芸術の結果は、人間の堕落や快楽がどこまでも満たされない心持や人間の気力の衰えだ。

われわれの社会では、芸術家は、物質的に保証されていれば、いい仕事ができて、作品も多くなると考えられている。この意見は、いまさら証明する必要もあるまいが、われわれの間で芸術よ考えられているものが実は芸術ではなくて、ただそのまがい物なのだということを、改めてまた十分はっきりと証明する。長靴や白パンの製造には分業ということが大そう得になって、靴屋やパン屋が自分で着物や薪を拵えずに済めば、仮に自分で着物や薪の心配をしなければならない場合よりも多くの長靴や白パンが出来るということは全く正しい。しかし芸術は手際物ではなくて、芸術家が味わった心持の表現なのだ。ところで、心持が人間に起こるのは、ただその人が人類に具わっている自然の生活のすべての面を味わう時に限られている。だから、芸術家が物質的な必要を保証されているということは、芸術家の創作にとって一番害になる条件であって、すべての人間に具わっている条件、つまり自分と他人の生活を支えるための戦いという条件を芸術家は守らなくてもいいことにあるから、そのために一番大切な、人間の持前の心持を味わう機会と手段をなくしてしまう。芸術家の創作にとって、十分な安心と贅沢の状態ほど害にあるものはないのだが、われわれの社会では芸術家は普通そういう状態にいるわけだ。

科学と芸術は互いに、肺と心臓のように、密接に結びついているから、一方の器官が悪くなると、もう一方も正しくはたらくわけには行かない。
本当の科学は、或る時代或る社会で一番大事だと考えられた真理や知識を研究して、人間の意識に持ってくるものだし、芸術は、その真理を知識の領分から感情の領分に移すものだ。だから、もし科学の進んで行く途が間違っていれば、芸術の途も同じように間違ったものになる。化が買うと芸術は、前に河を上下していた、曳錨というものがついていた船の仕掛けに似ている。前の方に錨をつけていてそれを投げ込んで進む船のように、科学は〈宗教が方向を示した運動を準備して〉〔運動に方向を示して〕、芸術は、その船の上で運転している捲上機のように、船を錨の方に引きつけては、運動をする。だから、間違った科学のはたらきは、どうしても同じように間違った芸術のはたらきを引き起こすほかない。

芸術は快楽や慰みや娯みではない。芸術は大きな仕事だ。芸術は人間の理性的な考えを感情に移す人間生活の機関だ。現代で人間に共通な宗教心は、人間が兄弟だよいう考えと人間同士が結びつくのが幸福だという考えだ。本当の科学は、この考えを生活に当て嵌めるさまざまな仕方を教えるものでなければならない。芸術はこの考えを心持に表すものでなければならない。
芸術の務めは大したものだ。本当の芸術は、科学の助けを借りて宗教に導かれて、今では裁判だの警察だの慈善事業だの工場検閲だのそのほか外に見える工夫で保たれている人間の平和な共同生活に、人間の自由な喜んでするはたらきで行き着くようにしなければならない。芸術は暴力を取り除かなければならない。
しかも芸術だけにそれが出来るのだ。