アンドレ・ジイド『背徳者』

多くの大才は、結論を下すことを極度にきらったように私は考える。――それに、問題を巧みに提出することは、予め問題が解決されていることを予想するものではない。
心ならずも、私はここに「問題」という言葉を使ったが、実を言えば、芸術には問題などというものはありはしないのだ。――芸術作品がその十分なる解決でないような問題は。

翌日、バシルがまたやって来た。彼は、前々日のようにすわって、ナイフを取り出し、木を削ろうとしたが、木が固すぎたので、したたか拇指に切り込んでしまった。僕は恐ろしさにぞっとした、彼は、平ちゃらといった顔で、光っている傷口を見せ、おもしろそうに血のしたたるのをながめていた。笑うと、まっ白な歯が見えた。そして、愉快そうに傷口をなめた。猫のように薔薇色の舌だった。ああ!なんて健康なんだろう!僕が彼に惚れ込んだのはこれだ。この小さな肉体の持つ健康は、ほんとに美しかった。

俄然、驚くべき明瞭さで、これまでの自分の手当てが、十全なものでなかったことを覚った。これまでは、空漠たる希望にたよって、いいかげんに生きて来たのだ。――それが突然、自分の生命は攻撃されているのだ、生命の中心に猛烈な攻撃を受けているのだということが、はっきりとわかった。無数の活発な敵が、自分の体内に生きていたのだ。僕は、耳を澄まし、動静をうかがった。そして、彼らの存在は確かめた。闘わずしてこれに打ち克つことはできまい……僕は、このことを自分自身に一そうよく納得させるように、小声で付け加えた。これは意志の仕事だぞ、と。
僕は、対敵行動を開始した。
日が暮れかけていた。僕は作戦計画を立てた。しばらくは、なおることだけに専念しなければならない。僕の義務は、僕の健康だ。健康に益あるものはすべて良しと思い、「善」と呼ばなければならない。治癒に害あるものはすべて、忘れ、斥けなければならない。――夕食に先立って、呼吸、運動、栄養に注意することに決心した。

「僕のために祈ってはいけないよ、マルスリーヌ」
「なぜ?」やや面食らって、彼女が言った。
「僕は、人の保護を受けるのがいやなんだ」
「神様のお援けもいらないとおっしゃるの?」
「援けてもらえば、あとで神様に感謝しなければならないだろう?つまり、義務を負うことになる。それがいやなのさ」
われわれは冗談めかして話していた。しかし、二人の言葉の重大さは、少しも誤解してはいなかった。
「おひとりでなおることはできませんわ」と彼女はため息とともに言った。
「そんならそれで、仕方がないさ……」それから、彼女の悲しそうな様子を見て、やや調子を和らげて付け加えた。「お前に援けてもらうからね」

僕の比類ない努力については、どう話したらよかろう?もし、自分が完全な人間になりうると考えなかったら、自分というものに興味が持ちえただろうか?ただ漠然と想像しているに過ぎない、この見も知らぬ完全を目ざす時ほど、僕の意志が昂揚したことはない。僕は意志のすべてを傾けて、肉体を強化し、赤銅色にすることに努めた。サレルノの近くで海岸を離れ、われわれはラヴェルロに着いた。この地の、ひときわさわやかな空気、奇岩怪岩の妙趣、底知れぬ深い谷が、僕の力や喜びを盛り立て、僕の情熱をあおった。

ラヴェルロからソレントへの道筋の美しさは、その朝、地上でこれ以上美しいものなど見たくないと思ったほどだ。峨々たる岩石、ふんだんの空気、馥郁たる香り、清澄な空と水、すべては生きることの尊い魅力で僕の心を満たし、すがすがしい喜びのほか、身内に住まう何物も感ぜられなかったほどの、満足を味わった。思い出も名残りも、望みも願いも、過去も未来も、黙して語らなかった。僕はもう、生命に関して、瞬間が生命から持ち去り持ち来るものしか知らなかった。僕は叫んだ。
「おお、肉体の歓喜!わが筋肉の確実な韻律!健康!……」

僕は、彼も飲むことと思って承知した。と、グラスを一つしか持って来ないので、僕が意外に思った。すると、彼は言った。
「失敬だが、僕はまるでやらないんでね」
「酔うのが心配なのかい?」
「なんの、」彼は答えた。「冗談じゃない!しかし、僕は節制の方がさらに強い陶酔だと思うんだ。正気も失わないしさ」
「そのくせ、人には飲ませるんだね……」
彼は微笑した。そして言った。
「だれにでも自分の美徳を要求することはできないさ。他人の中に自分の悪徳を見つけることができれば、それだけで立派なことだ。……」
「でも、煙草は喫むだろう?」
「煙草も喫まん、あれは没個性的な、消極的な陶酔だ。だれでも雑作もなくできることだ。僕は陶酔の中に、生命の高揚を求めるのだ。生命の減少じゃない」