深沢七郎『楢山節考』

楢山節考

雪だった。辰平は、
「あっ!」
と声を上げた。そして雪を見つめた。雪は乱れて濃くなって降ってきた。ふだんおりんが、「わしが山へ行く時ァきっと雪が降るぞ」と力んでいたその通りになったのである。辰平は猛然と足を返して山を登り出した。山の掟を守らなければならない誓いも吹きとんでしまったのである。雪が降ってきたことをおりんに知らせようとしたのである。知らせようというより雪が降って来た!と話し合いたかったのである。本当に雪が降ったなあ!と、せめて一言だけ云いたかったのである。辰平はましらのように禁断の山道を登って行った。

『東京のプリンスたち』

「俺のうちでも母親が一番うるさいんだ、なんでも聞きたがるんだ。だから頭へ来るよ、俺、ウソを言うことは嫌いだから言いたくないこともあるんだよ、母親ってカンがいいんだ、隠してることすぐピンときてシツコク聞きたがるんだ。だから頭へ来るんだ、おふくろと俺では立場がちがうんだ、ヒトのことをヤイヤイ騒いで干渉したって仕様がねえと思うんだけど、俺のうちのおふくろは頭が悪いんだ、神経衰弱かも知れんナ」

オヤジはこっちも見ないで客と話しているのである。(これは、いいな)と思った。黙って立っているとオヤジはタバコをとりだした。急いで公次はポケットからマッチを出して火をつけてやった。(うまいナ)と思った。おとなしく火をつけさせてくれる時は、後で嫌だと言ったことがなかった。