安部公房『他人の顔』

光というやつは、自身透明であっても、照らしだす対象物を、ことごとく不透明に変えてしまうものらしいのだ。

その夜、家に戻ったぼくは、珍しくバッハを聴いてみようという気をおこしていた。べつに、バッハでなければならないというわけではなかったが、この振幅の短くなった、ささくれだった気分には、ジャズでもないし、モーツァルトでもなく、やはりバッハがいちばん適しているように思われたのだ。ぼくは決して、音楽のよき鑑賞者ではないが、たぶんよき利用者ではあるだろう。仕事がうまくはかどってくれないようなとき、そのはかどらなさに応じて、必要な音楽を選びだすのだ。思考を一時中断させようと思うときには、刺戟的なジャズ、跳躍のバネを与えたいときには、思弁的なバルトーク、自在感を得たいときには、ベートーベンの弦楽四重奏曲、一点に集中させたいときには、螺旋運動的なモーツァルト、そしてバッハは、なによりも精神の均衡を必要とするときである。

だが、この先は、もう決して書かれたりすることはないだろう。書くという行為は、たぶん、何事も起らなかった場合だけに必要なことなのである。