トルストイ『コサック』

「罪?なんの罪だ?」老人はきっぱりと答えた。「いい女を眺めるのが罪か?そいつと付き合うのが罪か?それともそいつをかわいがるのが罪か?あんたらのとこではそうなのか?いいや、あんた、そりゃあ罪じゃねえ、救いだよ。神様があんたを創った、神様が女も創った。みんな神様がな、いいか、創ったんだ。だから、いい女を眺めるのは罪じゃねえ。女が創られたのは、かわいがって楽しんでもらうためだ。おれはそう思うがね、おまえさん」

まわりの深い緑に視線をめぐらし、じめじめしたこの場所、昨日の糞。シカの膝の跡、シカが引っかいた黒土のかけら、昨日、自分が残した足跡へと視線をめぐらす。涼しく、居心地よかった。なにも思わず、望まなかった。するととつぜん、わけもない幸福とすべてのものへの愛という不可思議な感情にとらわれて、彼は子供のころから染みついた習慣にしたがい、十字を切ってなにものかに感謝を捧げた。

『いずれにしろ生きなきゃいけない。だって、ぼくが唯一望むものは幸せなんだから。ぼくがなんであろうと同じことだ。死んだら草が生えてきてそれでおしまいのありふれた動物だろうと、あるいは唯一神の一部が流しこまれた容器なのだろうとーーいずれにせよ、最善の人生を送らなきゃならない。幸せになったら、どんな生きかたをすべきなんだろう?なぜぼくはいままで幸せじゃなかったんだろう?』そうして過去の生活を振りかえってみると、彼は自分自身に吐き気を覚えた。自分は欲張ってばかりのエゴイストとしか思えなかったが、その実、ほんとうに必要なものなどなにもなかったのである。それでも周囲の木漏れ日にきらめく緑や傾きはじめた太陽、晴れわたった空を眺めると、自分は依然もいまも幸せだというふうに感じた。

『なぜぼくは幸せなんだ、以前はなんのために生きていたんだ?』彼は考えた。『ぼくはなんとわがままだったか。思いつきばかりで、恥さらしなこと、ろくでもないことしかしなかった!でも、見ろ、幸せになるためにはなにも必要ないんだ!』するととつぜん、新しい世界がひらかれたかのようだった。『幸せとはーーそうだ』彼はひとり呟いた。『幸せとは、他人のために生きることにある。単純明快だ。人間には、幸せを望む気持ちが』埋め込まれている。つまりそれは正当なものだ。その気持ちをエゴイスティックに満たそうとすると、つまり財産や名声、快適な生活、愛など自分のために追求すると、状況によってはこの欲望が満たされえないことになる。とすると、この欲望が正当でないのであって、幸せを望む気持ちは正当なんだ。外的な条件にかかわらず、つねに満たすことのできる欲望とはなんだろう?さあどうだ?愛だ、自己犠牲だよ!』この新しいーーと彼には思われたーー真理を発見して、彼は喜びと興奮のあまりに飛びあがり、いちはやく自己犠牲をするにはだれがよいか、だれに善行を施すか、だれを愛したらよいか、焦って探しはじめた。『だって自分にはなにも必要ないんだから』と彼は考えつづけた。『他人のために生きない理由がないだろう』

月曜日に女に惚れた
火曜日は苦しみぬいた
水曜日に愛を明かした
木曜日はひたすら待った
金曜日に答えがあった
だけど待っても無駄だとよ
だからよく晴れた土曜日に
いっそ死のうと心に決めた
けれど魂が救われて
思いなおした日曜日

愛してしまったのはぼくのせいではない。ぼくの意志に反してこうなったのだ。ぼくは自己犠牲なんてことを言って、自分の愛から身を守っていた。ルカーシカとマリヤーナが相思相愛で嬉しいなどというでっちあげを言い、自分の愛と嫉妬を刺激した。これはぼくが以前に経験したような、理想の、いわゆる崇高な愛ではない。相手に惹きつけられながらも自分の愛にうっとりし、自分の内側から気持ちが湧きあがるのを感じて、すべてをみずから進めていくような愛でもない。そんな愛ならぼくも経験してきた。快楽の欲望とはなおさら違う、これはなにかべつのものだ。たぶんぼくは、彼女のなかに自然を、自然のあらゆる美の具現を見いだし、愛しているのだろう。でもそれはぼくの意志ではなくて、なにか制御不能な力がぼくをとおして彼女を愛しているのだ。神々しい世界、自然のすべてが、この愛をぼくの魂に押しつけてきて言うのだ、愛せ、と。ぼくは彼女を、知性でも想像でもなく、おのれの全存在をもって愛している。彼女を愛していると、幸福な神々しい世界の一部に自分がしっかりと組みこまれたように感じる。