エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』

資本主義の経済的発展にともなって、心理的雰囲気にもいちじるしい変化が起った。中世も終わりに近付くころ、不安な落ちつかない気分が生活をおおうようになった。近代的な意味の時間観念が発達しはじめた。一分一分がが価値あるものになった。時間のこの新しい意味をよくあらわしているのは、ニュールンベルクの時計が十六世紀以来、十五分ごとに鐘を打つようになったことである。休日が多すぎることは一つの不幸と思われた。時間は非情に貴重なものとなり、つまらないことに時間を浪費してはならないと考えるようになった。仕事がますます至上の価値をもつものとなった。仕事にたいする新しい態度が発達し、しかもそれは非常に強力だったので、教会の制度が経済的に非生産的であることにたいし、中産階級は憤りを感ずるようになった。居候階級は非生産的であり、したがって非道徳的であると非難された。
能率という概念がもっとも高い道徳的な価値の一つと考えられるようになった。同時に富と物質的成功を求める欲望が、ひとびとの心をうばう情熱となった。

個人は経済的政治的な束縛から自由になる。かれはまた、新しい組織のなかで活動的な独立した役割を果せば、積極的な自由を手に入れることができる。しかし同時に、かつての安定感と帰属感とを与えていた絆から解放される。人間が世界の中心であるような、狭いとざされた生活は終りをつげる。世界は際限のないものとなり、同時に恐怖にみちたものとなる。人間はとざされた世界のなかでもっていた固定した地位を失い、自己の生活の意味に答えるすべをなくしてしまう。その結果、自分自身についての、また生活の目標についての疑惑がふりかかってくる。かれは強力な超人間的な、資本や市場の力におびやかされる。仲間にたいする関係も、すべて心の奥底には競争心が巣くっていて、敵意にみちた空々しいものとなった。かれは自由になったーーいいかえれば孤独で孤立しており、周囲からおびやかされているのである。ルネッサンス時代の資本家がもっていたような富も力もなく、また他人や世界と一体になっていた感じも失い、かれは自己の無力さと頼りなさにおしひしがれる。天国は永久に失われ、個人は独りで世界に立ちむかう。ーーかれは果てしない恐怖にみちた世界に放りだされた異国人である。新しい自由は必然的に、動揺、無力、懐疑、孤独、不安の感情を生みだす。もし個人がうまく活動しようと思えば、このような感情はやわらげられなければならないのである。

個人は疑いと無力さの感情を克服するために、活動しなければならない。このような努力や活動は、内面的な強さや自信から生まれてくるものではない。それは不安からの死にものぐるおの逃避である。

愛は、もともとある特定な対象によって「惹きおこされる」ものではない。それは人間のなかに潜むもやもやしたもので、「対象」はただそれを、現実化するにすぎない。憎悪は破壊を求める」はげしい欲望であり、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。すなわち愛は「好むこと」ではなくて、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追求であり、内面的なつながりである。それは原則として、われわれをも含めたすべての人間やすべての事物に向けられるように準備されている。排他的な愛というのはそれ自身一つの矛盾である。たしかに、ある特定の人間が明らかに愛の「対象」となることは偶然ではない。このような特定の選択を条件づける要素は、非常に数が多く、また非常に複雑で、ここで論ずることはできない。しかし重要なことは、ある特殊な「対象」への愛は、一人の人間のうちのもやもやした愛が、現実化し集中化したものにすぎないということである。これは、ロマンティックな恋愛観のいうように、人間が愛することのできるのは、この世でたった一人しかいないとか、そのような人間をみつけることが人生の大きな幸運であるとか、その人間にたいする愛は他のすべてのものから退くことであるとかいうようなものではない。ただ一人の人間についてだけ経験されるような愛は、まさにそのことによって、それは愛ではなく、サド・マゾヒズム的な執着であることを示している。愛に含まれる根本的な肯定が愛人に向けられるとき、それは愛人を、本質的に人間的な性質の具現したものとみているのである。一人の人間にたいする愛は人間そのものにたいする愛である。人間そのものにたいする愛は、しばしば考えられているように、特定の人間にたいする愛の「あとから」抽象されたものではなく、また特定の「対象」との経験を拡大したものでもない。人間そのものにたいする愛は、もちろん発生的には、具体的な個人との接触によって獲得されるものであるが、それは特定の人間にたいする愛の前提となっている。

マゾヒズム的な努力としてもっともしばしばあらわれる形は、劣等感、無力感、個人の無意味さの感情である。この感情にとりつかれた人間を分析してみると、かれらは意識的にはこの感情を不満に思い、それからのがれようとしているが、無意識的には、かれらの内部にひそむある力にかられて、自分を無力な、重要でないものと感じていることがわかる。かれらは事実自分は無力なのだといいはっているが、かれらの感情はじっさいの欠点や弱点の認識をはるかにこえている。かれらは自分自身を小さくしようとしている、弱くしようとしている。そして事物を支配しないようにしている。たいていのばあい、かれらは外がわの力に、他のひとびとに、制度に、あるいは自然に、はっきりよりかかろうとしている。かれらは自分を肯定しようとせず、したいことをしようとしない。しかし外がわの力の、現実的な、あるいは確実と考えられる秩序に服従しようとする。かれらは「私は欲する」とか「私は存在する」とかいう感情をもつことが不可能であることがよくある。生活は全体として、支配も統制もできない、圧倒的に強力ななにものかとして感じられる。

マゾヒズム的努力のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷からのがれることである。

歴史の記録がなぜそんなに多くの残虐と破壊性とを示しているのかを疑う余地はない。もし驚くべきなにものかがーーそして勇気づけてくれるなにものかが存在するとすれば、それは、人間にさまざまなことがおこったにもかかわらず、人類が歴史の全過程にわたり、またこんにち無数の個人のうちにみいだされるような、尊厳、勇気、品位、親切というような性質を保存しーー現実に発展させたという事実である。

こんにちほど、言葉が真理をかくすために悪用されることはかつてなかった。協調のうらぎりは宥和とよばれ、軍事的侵略は攻撃にたいする防衛としてカムフラージュされ、弱小国家の征服は友好条約の名でおこなわれ、全人民の残虐な抑圧は国家社会主義の名のもとにおこなわれる。デモクラシー、自由、個人主義という言葉もまた、この悪用の対象となる。デモクラシーとファッシズムとのちがいの真の意味を明らかにする一つの方法がある。デモクラシーは個人の完全な発展に資する経済的政治的諸条件を創りだす組織である。ファッシズムはどのような名のもとにしろ、個人を外的な目的に従属させ、純粋な個性の発展を弱める組織である。