マーク・トウェイン『地球からの手紙』

『アダムとイヴの日記』

イヴの墓にて
アダムーー『イヴがどこにいようとも、そこがエデンであった』

『地球からの手紙』

そうとも。アダムとイヴはいまや、何が悪かを知り、悪い行いも覚えたのだ。二人は様々な悪事のやり方を覚え、そのなかでも重要なものーーつまり、神が第一に心にかけているものを知ったのだ。それは性行為にまつわる技巧と神秘だった。これは二人にとって重大な発見であったので、以前のようにブラブラしているのをやめて、全神経をそのことに集中することにした。意気軒昂だが、かわいそうな若者たちよ!

不思議だね――人間の心の働きというのは。キリスト教徒は、次のような直截的な命題、明確このうえない命題、つまり次のような確固たる、妥協の余地のない命題から、信仰を開始するのだ。神は全知全能である。
こんなわけだから、神があらかじめ何かが起こることを知らないかぎり、何も起きんのだよ。つまり、神の許しがなければ何も起こらないし、彼が妨害しようとすれば何も起こりようがないのだ。
これですっきりするんじゃないのかね?これで起こることすべてに対して、造物主に責任があることが明らかになったんじゃないのかね?
キリスト教徒は先ほどの神は全知全能であるという命題のなかで、このことを認めている。それも感動して、熱烈にそれを認めているのだ。
このように、先ほど例にあげた苦痛、病気、悲惨などのあらゆる責任を、それを妨げなかった造物主に押しつけながら、聡明なキリスト教徒たちは口当たりのよい言葉で、彼のことを父なる神なんて呼んでいるのだ。
私の言うとおりなのだ。キリスト教徒は、造物主に悪魔としてのありとあらゆる特性を身につけさせたあげく、悪魔と父なる神とは同一人物であるという結論に達してしまうのだ!しかし、この同じキリスト教徒は、邪悪な狂人と日曜学校の校長とが、本質的に同一人物であるとは認めまい。諸君、人間の心についてどう思うかね?むろん、人間に心というものがあればの話だが。

神は子供たちに対して正しくふる舞うようにと要求するーーそして敵には優しくし、七十七回も赦すよう求めるのだ。ところが、神はだれに対しても、公平でも優しくもない。また、最初の人間である無知で軽率な若い二人に対してさえ、その最初のささいな罪を赦さず、「今回は無罪放免だ。もう一度だけチャンスを与えよう」などとは言わなかった。
とんでもないことだ!神は彼らの子孫に罰を与えることを選んだのだ。それも何代にもわたって永遠に、彼らが生まれる前にほかの者が犯した、ささいな罪のために罰せられているのだ。神はいまもなお、子孫を罰しつづけている。軽い罰かだと?いや、残忍きわまりない罰なのだ。
諸君はこのような神が、チヤホヤされているとは思うまい。教えてやろうか。この世では神のことを、「正義の神」、「義の神」、「善の神」、「慈悲の神」、「赦しの神」、「真実の神」、「愛の神」、「あらゆる道徳の源泉」、などと呼んでいるのだ。こうした皮肉は毎日、世界中で言われている。しかし、それは故意の皮肉としてではないのだ。そう、真剣そのものなのだ。真顔で言っているのだ。

生は貴重な贈り物ではなかったが、死は貴重なものだった。生とは悲しみで苦味をつけた喜び、苦痛でゆがんだ喜びとからなる、熱病のような夢んあおだ。それは悪夢のように錯乱しつつ、ふいに訪れるつかのまの喜びや恍惚や歓喜や幸福をはらんだ夢であり、さらにはながく尾をひく不幸、悲歎、危険、恐怖、失望、挫折、屈辱、絶望などがないまぜになった夢なのだ――つまり、神の創意によって考え出された、もっとも過酷な呪いなのだ。しかし、死はあまく、優しく、親切である。傷ついた魂や打ちひしがれた心を癒し、休息と忘却を与えてくれる。死は人間の最良の友であり、人間がこれ以上生きつづきえることができなくなると、死がやってきて、自由の身にしてくれるからなのだ。

クリスチャン・サイエンス

私たち人間はみなどこかしら頭がおかしいということを考えてみよう。そうすれば私たちがどういうものであるかがお互い分かるだろう。そうすれば多くの謎が解けるし、現在頭にこびりついて、人を悩ます難しくて曖昧な問題に関する多くの事柄を単純明快なものにしてくれるだろう。
私たちのうちで精神病院に入ってはおらず、また明らかにそこに入る必要のない人々でも、一つ二つの項目ではおそらくおかしいことがある。私たちはこの事実を認めなければならないと思うが、他の点では健全であると考える。私たちがみなあるものを同じように考えると、そのものに関して、私たちの心は完全に健全であるという証拠になると思う。事実、私たちがみな同じように考えるものが幾つかある。つまりそれらを私たちは誰しも受け入れ、口論することはないのである。

過去の教訓は私たちにこう教えている。成功するためには、この種の宗教運動は単に哲学になってはならず、宗教にならなければならないと。また、その運動は完璧な独創性を要求してはならず、現在の宗教より少しすぐれているものとして通用することで満足し、ちょうど回教のように、優勢になって繁栄したのち、その本領を示さなければならない、と教えている。