村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』

「私がいちばん好きな事、何かというとね」と彼女は僕の目を見ながら言う。「冬の寒い朝に嫌だな、起きたくないなと思いつつ、コーヒーの香りと、ハムエッグの焼けるじゅうじゅういう匂いと、トースターの切れるパチンという音に我慢しきれずに、思い切ってさっとベッドを抜け出すことなの」
「よろしい。やってみよう」と僕は笑って言う。

一度死んでしまえば、それ以上失うべきものはもう何もない。それが死の優れた点だ。

「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたとの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」

彼女は毛皮のコートを脱いでハンガーにかけ、ガス・ストーブをつけた。そしてどこかからバージニア・スリムの箱をもってきて一本口にくわえ、紙マッチをクールに擦って火をつけた。十三の女の子が煙草を吸うというのは良くないことだと僕は思う。健康にもよくないし、肌も荒れる。でも彼女の煙草を吸う姿は文句のつけようがないくらい魅力的だった。だから僕は何も言わなかった。ナイフで切り取ったよぷな薄い鋭角的な唇にフィルターがそっとくわえられ、火をつけるときに長いまつげが合歓の木の葉のようにゆっくりと美しく伏せられた。額に落ちた細い前髪が彼女の小さな動作にあわせて柔らかく揺れた。完璧だった。十五だったら恋におちている、と僕はあらためて思った。それも春の雪崩のような宿命的な恋に。そしてどうしていいかわからなくて、おそろしく不幸になっていただろう。ユキは僕に昔知っていたある女の子を思い出させた。僕が十三か十四の頃に好きになったひとりの女の子のことを。その当時に味わった切ない気持ちがふとよみがえった。

「もう三十四だよ。みんな嫌でも大人になる」と僕は言った。
「たしかにそうだ。そのとおりだ。君の言うとおりだよ。でも、人間って不思議だよ。一瞬で年をとるんだね。まったくの話。僕は昔は人間というものは一年一年順番に年をとっていくんだと思ってた」と五反田君は僕の顔をじっとのぞきこむようにして言った。「でもそうじゃない。人間は一瞬にして年をとるんだ」

時々彼女のことがうらやましくなった。彼女が今十三歳であることが。彼女の目にはいろんな物事が何もかも新鮮に映るのだろう。音楽や風景や人々が。それは僕が見ているものの姿とはまるで違っているだろう。僕だって昔はそうだった。僕が十三歳の頃、世界はもっと単純だった。努力は報いられるはずのものであり、言葉は保証されるはずのものであり、美しさはそこに留められるはずのものであった。でも、十三歳の時の僕はそれほど幸せな少年ではなかった。僕は一人でいることを好み、一人でいるときの自分を信じることができたけれど、当然ながら大抵の場合一人にはなれなかった。仮定と学校という二種類の強固な枠の中に閉じ込められて、僕は苛立っていた。苛立ちの年だった。僕は女の子に恋をしていて、それはもちろん上手く行かなかった。何故なら恋がどういうものかということさえ僕は知らなかったのだから。僕は彼女と殆どまともに口をきくことすらできなかった。僕は内気で不器用な少年だった。教師や親の押し付けてくる価値観に異議を唱え反抗しようとしていたが、異議申し立ての言葉が上手く出てこなかった。何をやっても手際良く行かなかった。何をやっても手際良く行く五反田君とは全く逆の立場の人間だった。でも、僕は物事の新鮮な姿を見ることはできた。それは素敵なことだった。匂いがきちんと匂い、涙は本当に温かく、女の子は夢のように美しく、ロックンロールは永遠にロックンロールだった。映画館の暗闇は優しく親密であり、夏の夜はどこまでも深く、悩ましかった。それらの苛立ちの日々を僕は音楽や映画や本とともに過ごした。サム・クックやリキー・ネルソンの唄の歌詞を覚えて過ごした。僕は自分一人の世界を構築し、その中で生きていた。それが僕の十三歳だった。そして五反田君と同じ理科の実験班にいた。彼は女の子たちの熱い視線を浴びてマッチを擦り、ガス・バーナーに優雅に火をつけていた。ボッと。
どうして彼が僕をうらやましがらなくてはならないのだ?
わからない。

「死んだ人間のことなら急いで考えることはないよ。大丈夫、ずっと死んでる。もう少し元気になってからゆっくりと考えればいい。僕の言うことわかるか?死んでるんだ。非常に、完全に、死んでるんだ。解剖されて冷凍されてるんだ。君が責任を感じても、何を感じても生き返らないんだ」

僕は冷たすぎるんだろうか、と僕は思った。僕には彼の気持ちが理解できないではなかった。腕が一本しかないにせよ日本揃っているにせよ、詩人であるにせよ非詩人であるにせよ、ここはタフでハードな世界なのだ。僕らはみんなそれぞれに問題を抱えて生きている。でも我々はもう大人なのだ。我々はもうここまで来てしまったのだ。少なくとも初対面の相手に答えることの困難な質問をするべきじゃないのだ。それは基本的な礼儀の問題なのだ。冷たすぎる、と僕は思った。そして僕は首を振った。首を振ったって何も解決しないのだけれど。

でもそれは現実であるはずだった。何故ならそれが僕の記憶している現実だからだ。それを現実としてみとめなくなったら、僕の世界認識そのものが揺らいでしまうことになる。
僕の精神は狂いを見せ、病んでいるのだろうか?
それとも現実が狂いを見せ、そして病んでいるのだろうか?
わからない。わからないことが多すぎる。
でもいずれにせよ、どちらが狂ってどちらが病んでいるにせよ、僕はこの中途半端なまま放置された混乱の状況をきちんと整理しなくてはならなかった。そこに含まれているものが哀しみであれ、怒りであれ、諦めであれ、僕はとにかくそこに終止符を打たなくてはならないのだ。それが僕の役割なのだ。それがあらゆる物事が僕に示唆してきたことだった。そのために僕は様々な人々と出会い、この奇妙な場所にまで運ばれてきたのだ。