ダンテ『神曲 地獄篇』

人生の道の半ばで
 正道を踏み外した私が
 目をさました時は暗い森の中にいた。
その苛烈で荒涼とした峻厳な森が
 いかなるものであったか、口にするのも辛い。
 思い返しただけでもぞっとする。
その苦しさにもう死なんばかりであった。
 しかしそこでめぐりあった幸せを語るためには、
 そこで目撃した二、三の事をまず話そうと思う。

「憂の国に行かんとするものはわれを潜れ。
 「永劫の呵責に遭わんとするものはわれをくぐれ。
 「破滅の人に伍せんとするものはわれをくぐれ。
「正義は高き主を動かし、
 「神威は、最上智は、
 「原初の愛は、われを作る。
「わが前に創られし物なし、
 「ただ無窮あり、われは無窮に続くものなり。
 「われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ」

「おまえの学問に還れ。
 その学問の体系では、事物は完全であればあるほど、
 それだけ喜びも苦しみも強く感じるとされている。
こうした呪われた連中はけっして
 真の完成に到達することはないけれども、
 審判の後では〔肉体を回復するから〕前より完全に近づくわけだ」

ああ君がた、健全な知性の持主よ、
 不思議な詩句のとばりの下に隠された
 教義を見抜いてくれ。

先生の言葉を聞くと私も病人のようにぞっとした。
 だが恥を知る心に私は鞭打たれた、
 良い主人の前では奴も恥を知り励むものだ。

私たち人間に似たこの姿は、近くから見ると、
 首がねじれているから目からあふれた涙が
 筋を引いて流れてその臀を濡らしていた。
粗い岩壁の一角にもたれて
 それを見て私は泣いた。すると先生がいった、
 「おまえまでまだそのような愚かしい真似をするのか?
ここでは情を殺すことが情を生かすことになる。
 神の裁きにたいして憐憫の情を抱く者は
 不逞の輩の最たるものだ。

両者はぴったりとくっついた。
 まるで熱くなった蝋のように、色も混じって、
 どちうらがどちらだかもう正体もわからない。
ちょうど火が焼けつくと
 紙がだんだんと茶色く焦げ、
 まだ黒ではないが、白は死ぬ、そんな様だ。

可愛い息子も、年老いた父を思う情も、
 妻ペネロペを幸福にしてやる
 夫としての務めも情けも、
この私のうちにある激情には克てなかった。
 この世界を知り尽くしたい、
 人の悪も人の価値も知りたいという気持ちには。

ただ良心だけが私の支えだ、
 良心というのは人間の良き伴侶で、
 自己の潔白の自覚が人に強みを与えてくれる。

「これが悪魔大王だ。この場所ではいいか、しっかりと肝っ玉をすえるのだぞ」

私はその時身も心も凍り、声もかすれたが、
 読者よ、それについては聞くな、書こうにも
 筆舌に尽くしがたいのだ。
私は死にはしなかった、だが生きた心地はしなかった。
 読者よ、少し分別があるなら、自分で考えてくれ、
 死にもせず生きもせず私がどうなっていたかを。

この苦悩の王国の帝王は
 胸の半ばから上を氷の表へあらわしている。
 その腕の長さは巨人の背丈をはるかに凌ぎ、
まだしも私の背丈の方が巨人に近いといえそうなくらいだ。
 こうした部分に相応するような全体が
 いかなるものであるかを考えてみるがいい。
いまはまことに醜いが昔はそれだけ美しかった、
 それが造物主にたいして昂然と叛いたのだ、
 いっさいの災いが彼に淵源を発するのも当然の道理だ。