三島由紀夫『鏡子の家』

苦悩や青春の焦燥を恥じるあまり、それを告白せぬことに馴れてしまって、かれらは極度にストイックになった。かれらは歯を喰いしばっていた。実に愉しげな顔をして。この世に苦悩などというものの存在することを、絶対に信じないふりをしなくてはならぬ。白を切りとおさなくてはならぬ。

彼は唇のはたにこしらえた今朝の安全剃刀の傷を思い出した。舌の先でそこを舐めてみると少し塩辛かった。今朝、鏡の中ではからずも唇のわきににじみ出る血を見たときに、こんな小さな無害な失錯に気をよくしたことも思い出した。たまに慎重さを欠くというのはいいことだ。もしかすると剃刀の刃は、瞬時のうちに、彼の意向を承けて横辷りしたのかもしれなかった。

自由に対する汚辱をよろこんで貪り喰うこと、どんなに永いあいだ放置っておかれても、この怠惰な食慾だけはなくならなかった。収はある咽喉の渇いた朝、新聞で一家心中の記事を見た。その一家の母は青酸加里の入ったジュースを、六つと二つの子に飲ませたのである。しかし見出しの「毒ジュース飲ませ」という大きな活字が目に入ったとき、収にはその「毒ジュース」という字が、えもいわれず美味しそうに感じられた。それはさわやかに咽喉を潤すにちがいない美しい飲料だった。色彩もあざやかなら、香気も高く、迅速な毒をたっぷりと含んでいて、ある渇いた朝、自分の意志にかかわりなく、やさしい手で与えられる飲料。それを飲んだ瞬間、忽ちにして世界は一変するような飲料。彼が待ちこがれているのは多分こうした飲食物である。

考えてもみるがいい。感情や心理がどれほどの価値があろう。感情や心理だけがどうして微妙であろう。人体でもっとも微妙なものは筋肉なのである!感情や心理は、筋肉をよこぎる焔のようなもの、筋肉の或るほのめき、そのちょっとした緊張以上に、大して価値のあるものではないし、怒りや涙や愛情や笑いは、筋肉のそれ以上にニュアンスに富んでいるということはできなかった。筋肉は、その怒張や、そのくつろぎや、その歓びや、その笑いや、微妙な肌の色や、朝と夕べのわずかな光沢の差が示す疲労の濃淡や、汗のかがやきや、これらもろもろの様相を示して、山の巌のように、きびしい鉱物質の黒から高山植物の紫まで変幻し、一日の光線の移りゆきによって刻々に変貌する山のように、たえまない変化を示すのであった。

『俺はその壁をぶち割ってやるんだ』と峻吉は拳を握って思っていた。
『僕はその壁を鏡に変えてしまうだろう』と収は怠惰な気持ちで思った。
『僕はとにかくその壁に描くんだ。壁が風景や花々の壁画に変わってしまえば』と夏雄は熱烈に考えた。
そして清一郎の考えていたことはこうである。
『俺はその壁になるんだ。俺がその壁自体に化けてしまうことだ』

事実、芽生えかけた筋肉に薄く鎧われた収の体は、痩せてはいるが、いかにも鋭利な美しさで、夏の烈しい日光に研ぎすまされたように見えた。その実それは膨らんだのであったのに。

作品の本質とは、超時間性に他ならないのだ。もし人間の肉体が芸術作品だと仮定しても、時間に蝕まれて衰退してゆく傾向を阻止することはできないだろう。そこでもしこの仮定が成立つとすれば、最上の条件における自殺だけが、それを衰退から救うだろう。何故なら芸術作品も炎上や破壊の運命を蒙ることがあるからであり、美しい筋肉美の青年が、芸術家の仲介なしに彼自身を芸術作品とすることができたとしても、その肉体における超時間性の保障のためには、どうしても彼の中に芸術家があらわれて、自己破壊を企てなくてはならないだろう。筋肉の錬磨と育成は、肉体を発展させることでもあるが、同時に時間的法則の裡に、衰退の法則の裡に、肉体を頑固に閉じこめておくことであるから、それは芸術行為ではないのであって、自殺に終わらぬ限り、その美しい肉体も、芸術作品としての条件を欠いている筈である。

彼はまだ見ない男の肩を押しのけて、自分の力が、明快な交通整理をやってのけうのを予想した。『そいつは許していい。そいつは許しておけない。』力というものは、いずれにしろ、整理し統括する力だった。外部がはっきりと見え、輪郭が鮮明に、事物が処を得て見えるようになるには、力が必要だ。あらゆるあいまいなもの、混沌たるもの、了解不可能なものは、この拳闘選手には、自分の力に対する侮辱のように思われるのであった。
『そいつは許しておけない』
そう呟くたびに、峻吉は自分の中に、何だか偉大さの萌芽を感じた。

通例、愛されない人間が、自ら進んで、ますます愛されない人間になろうとするのには至当の理由がある。それは自分が愛されない根本原因から、できるだけ遠くまで逃げようとするのである。

「君もよく知っていなければならないが、美しい者になろうという男の意志は、同じことをねがう女の意志とちがって、必ず『死への意志』なのだ。これはいかにも青年にふさわしいことだが、ふだんは青年自身が恥じていてその秘密を明かさない。その秘密を大っぴらにするのは戦争だけだ」

ブウルジョアの俗信に、必ず芸術家には苦悩が伴うものだと信じられているのは、ふしぎなことだ。何か遠い苦悩の信仰と、芸術家の伝説とが、どこかでまざり合ってしまったものにちがいない。たといブウルジョアでも、子供を失ったり、妻を失ったりしたときに、本物の人間的苦悩を味わうのであるが、どうやら彼には自分の味わっているものを苦悩だと考えたがらない傾きがある。どこまでも本当の苦悩は他人まかせにしておきたく、自分たちがこんな不吉な物質の永代管理人ではありたくない。どこかかに苦悩の銀行、苦悩の総元締、苦悩の専門家がいてほしいのだ。むかしは見るもおぞましい聖者たちがこの役を努めていたが、いつのことからか、聖者の代りに芸術家が登場するのである。
かくて芸術家は、もっとも無益なものに関するその強烈な苦悩の能力で、深く人々を安心させるようになった。その苦悩の社旗的無価値、その苦悩の抽象性は、人々が実生活に於いて抱いている苦悩への恐怖を癒やす。芸術家たちは一つの苦悩の運命を演ずるが、それは絶対に伝染するおそれのない奇病に苦しむ人を見るようなもので、ブウルジョアが苦悩に関してもっとも怖れる特質、あの「普遍性を帯びた不吉さ」を免れさすのである。
一般的法則とはなりえない苦悩、一般的な人間存在とは何のかかわりもない苦悩、これこそはブウルジョアが芸術家に於いて愛するところのものだ。ブウルジョアがこの苦悩と引き代えに彼らに与える「天才」の称号は、一般的原理から人々の目を外らし、しばしの安息に身を横たえさせてくれる社会的功労賞のようなもので、こんな仕組によって、「芸術はしばし心を慰める」ことができるのである。

青年は他人の感動はみんな凡庸だと思いたがるものだ。

夫婦は腕を組んだまま、中央公園の冬木立の下へ歩み入った。
『散歩は悪い習慣です。それは孤独を育てる』
誰かそういう警告の立看板を、公園の入口に立てるやつはいないのか。今日は幸いに曇って寒いので、日曜日の中央公園のベンチを占める、あの孤独な日なたぼっこの人たちの姿を見なかった。どこの木かげにも、夥しい落葉が散り敷いていた。

「あなたは虜の生き方を選んだんだわ。檻の中へ自分から入ることで、自分が猛獣だということを証明しようなんて、あなた以外に思いつきそうもない考えね。あなたが猛獣だということを知っているのは、でも世界中にあなた一人なんだわ」