カミュ『カリギュラ』『誤解』
『カリギュラ』
老貴族 わしは恋の仕業と考えたいね。そのほうが感動的じゃよ。
エリコン いや安心できるのだ、そうとも、そのほうが全然安心なんだな。こいつは、頭のいいやつ、悪いやつ、おかまいなしにやられる類いの病気だからな。
第一の貴族 いずれにせよ、幸いなことには、悲しみというものは永久に続きはせん。諸君はいったい、一年間も苦しみ続けることができますかね?
第二の貴族 わたしは、だめだね。
第一の貴族 何人もかような力は持ちあわせておらぬ。
老貴族 そんなことになったら第一生きておれんよ。
第一の貴族 ごもっとも。たとえばこのわたしだが、去年、妻に死に別れた。あの時はずいぶんと悲しみ並みだを流したが、そのうちに忘れてしまった。時々は、辛い気持ちになることもある。が、要するに、取るに足らんことなのだ。
老貴族 それが自然の摂理というものじゃ。
エリコン それに、不幸というやつ、こいつは結婚みたいなものでね。当人は自分で選んだと思っているが、いつの間にか選ばれたのが自分というわけだ。なにしろそれは現実だから、どうにもならん。われらのカリギュラは不幸せなのだが、多分ご自分でもその理由はわかっていないのだ。あの人は、追いつめられたような気がした、だから逃げだしたのさ。われわれだって同じようにしただろう。たとえばこのわたしだが、今はこうやって君たちと口をきいているが、もし自分で自分の父親が選べたとしたら、この世に生まれては来なかったろうしね。
カリギュラ だが今は、おれの中で、名づけようもない生き物たちが立ち上がるのをおれは感じる。どうやってやつらを押えることができると言う?(セゾニアのほうに向き直る)ああ、セゾニア、おれは人間が絶望することもあるとは知っていた、だがおれはこの言葉の意味するところを知らなかったのだ。おれは、ほかのやつらと同じように考えていた、それは魂の病気だと。違う、苦しんでいるのは肉体なのだ。おれの皮膚が痛む、おれの胸が、おれの手足が。おれの頭の中は洞(うつろ)なのに、おれの心臓が突き上げられる。いや、一番我慢のならんのは、口の中のこの味だ。血でもない、死でもない、熱でもない、それが全部一つになった味だ。俺が舌を動かしただけで、すべてがまっ黒になり、人間どもは見るもおぞましい姿に変わる。一人前の男になるとは、こんなにも辛く、苦しいことなのか!
ケレア 承知した、カルギュラはあのままにしておこう。邪魔をするより、現在の方向を押しすすめてやるのだ。手ぬかりなく、あの人の狂気を準備しよう。いつかはやってくるのだ、死人たちと、死人の縁者たちに満ちあふれた帝国を前に、あの人がたった一人になる日が。
カリギュラ (酒を飲む)いいか、聞けよ。(夢想して)今は昔、誰からも愛されぬ哀れな一人の工程がおった。皇帝のほうでは、レピュデスを愛していたが、この心の愛を捨て去るために、レピュデスの末の息子を殺させたのだ。(口調を変え)もちろん、嘘さ。こいつは滑稽だな、え?貴様、笑わないな。誰も笑わんのか?貴様ら、よく聞け。(烈しい怒りを見せて)おれは全員が笑うことを望む。貴様はもちろんだ、レピュデス、そしてほかのやつらもみんなだ。さあ、立て、笑うのだ。(食卓を叩く)おれは見たい、わかったな、おれは見たいのだ、貴様らの笑うところが。
カリギュラ すべてが恐怖の前に消え失せていく。恐怖さ、セゾニア、混じりもののない、純粋で、公平無私なこのうるわしい感情、腹の底から出て来る数少ない高貴な感情の一つだからな。
エリコン (立ち上がり、機械的に暗誦する)「死刑執行は苦しみを取り除き、人間を解放する。その意図ならびに適用において、それは普遍的なものであり、人間に勇気を与え、かつまた公平無比のものである。人は積みあるがゆえに死す。人はカリギュラの臣下たるゆえに罪あり。しかるに、すべての者はカリギュラの臣下なり。ゆえに、すべての者は有罪なり。かるがゆえに、すべての者は死ぬの道理。事は、時間と忍耐の問題にすぎぬ」
カリギュラ (笑いながら)どう思う?忍耐ときた、ええ?こいつがみそなのさ!はっきり言ってもらいたいか?お前たちにちいて、おれが一番感心しているのはまさにお前たちの忍耐力というやつさ。
カリギュラ (逆上して、シピオンに跳びかかり、そのえり首をとらえ、ゆすぶる)孤独だと!貴様にはあわかっているのか、孤独とは何か?貴様のは、詩人や能無しの孤独だ。孤独だと?だが、どんな孤独だ?ああ!貴様にはわかりはしない、一人でいるとき、人間は一人きりではない!そうだ、どこへ行っても、同じように未来と過去の重荷がつきまとう!おれたちの殺した人間どもがいつもおれたちと一緒にいる。殺したやつらなら、まだしも気は楽だ。だが、おれたちの愛したやつら、愛さなかったやつら、愛してくれたやつらはどうだ、後悔と欲望と、苦渋と甘美の思い出と、淫売どもに、神々の一味徒党だ。(彼はシピオンを放し、自分の席のほうへ後ずさりする)たった一人になる!ああ、せめて、無数の人間どものつきまとうこのいまわしい孤独、おれのこの孤独の代りに、せめてこのおれに、本物の孤独が味わえたなら、静寂と一本の木のさざめきが味わえたなら!(突然、疲れきったように腰をおろす)孤独か!だめさ、シピオン。そいつはな、歯ぎしりの音に満ちあふれ、無数の物音と無形の喧噪とに鳴り轟くものだ。そしておれが、愛撫してやる女のそばで、夜の帷がおれたちの上に垂れこめ、おれが、ようやく満たされたおれの肉体から離れて、生と死の間でかろうじて自分というものをつかまえたと思うそのとき、おれの孤独はな、まだおれのそばで寝穢く横たわる女の腋の下の、あの快楽のにがい臭いで、すみずみまで満たされてしまうのだ。
若いシピオン 人生には、優しい慰めになるものが何かあるのです、誰にとっても、生きていくためにはそれが助けになるのです。疲れきってどうにもならないとき、みんなそのほうに振り向くような優しい慰めが。
カリギュラ そのとおりだ、シピオン。
若いシピオン あなたの人生には、そういうものはにと言うのですか、涙があふれそうにあることとか、静かな隠れ家とか?
カリギュラ いや、あるにはあるな。
若いシピオン じゃ、なんです、それは?
カリギュラ (ゆっくりと)軽蔑さ。
ケレア それにしても、あの男が絶大な影響力を及ぼしているという事実だけは認めようではないか。あの男は思考を強いる。あらゆる人間に考えることを強いるのだ。不安というやつ、こいつのおかげで人間は考えざるをえなくなる。だからこそ、これほどの憎悪があの男をつけねらうことになるのだ。
『誤解』
母親 ただ、たまにはお前の笑顔が見たいと言いたかったのだよ。
マルタ 笑うことぐらいあるわ、そりゃ。
母親 見たことがないね。
マルタ それは、自分の部屋で笑うからよ、一人でいるときに。
マルタ 習慣?そんなことおっしゃったって、機会はめったになかったじゃありません?
母親 そうかもしれない。でも罪も二度目からは習慣になるのあよ。一度では何も始まりはしない、それは何か済んでしまったことなんだよ。それに機会はめったになくても、長い年月にわたっていると、思い出が習慣をつくっていくのさ。
母親 わたしは疲れているのだよ、ほんとうに。せめてあの男が最期であってほしい。殺すのはおそろしく疲れることだからねえ。わたしは海辺で死のうが、この平野のまん中で死のうが、あまり気にはならないけれど、とにかく、済んだら一緒に行ってもいいんだよ。
マルタ わたしたちは出発するのよ。そのときは、すばらしいでしょうね。さ、しっかりして、お母さん!たいしたことをするわけじゃなし。殺すってほどのことでもないでしょう。あの男はお茶を飲んで、眠る、わたしたちは生きたままそれを川へ運んで行く。しばらくすると、あの男ほどの運もなくて身投げした連中と一緒に水門へひっかかる、目を見開いて。水門の掃除に居合わせた日、お母さんはおっしゃったわね、わたしたちが手を下した者のほうが苦しんでないって。人生はわたしたちより残酷だわ。
マリヤ 方法は一つしかないわ。誰でもがすることよ。『ほらぼくだよ』って言うの。心のままに話せばいいのよ。
ジャン 心はそれほど単純じゃない。
マリヤ でも心は単純な言葉しか使わないわ。
ジャン わからずやだなあ。ぼくだってちゃんと愛しているじゃないか。
マリヤ いいえ、男の人にはほんとうの愛し方はできないわ。男の人を満足させるものは何一つないのよ。dきることといったら夢を見ること、新たな義務を考えだしたり、新しい国や住み家をさがしたりすることだけ。わたしたちは違う。わたしたちは知っているわ。手おくれにならないうちに愛さなければいけないのよ。寝床をともにし、手をとり合い、離ればなれになるのをおそれなければいけないのよ。愛しているときには夢なんか見ないわ。
マリヤ (急に彼に背を向けて)そりゃ、あなたの理屈はいつでももっともだわ。わたしを言い負かすことはできてよ。でも、もう聞かない。耳をふさぐわ。あなたがその声を出しはじめたら。わたしはよく知っているわ、その声を。それはあなたの孤独の声よ、愛の声じゃないわ。
マルタ お仕事なしで生活なさるのは大変なお金持ちかひどい貧乏人でなければできないことですわ。