二葉亭四迷『出産』『茶洗髪』『平凡』

『出産』

彼は何と感じたか知らぬが、僕は楽天家ではない。この苦の世の中へ苦を嘗めさせに頼まれもせぬに産ませた我が子と思うと、何とやら誰やらに済まぬような気もする。これの生先はどうなる事かと思うと、心細くも感ぜられる。せめて満足に生れた兒なら、我が力の及ぶ限り保護を加えて満足に一人前に育て上げねばならぬと思うと、我が子ながら預かり物のような気がして、粛然として頓に責任の重きを感ずる。
おめでたいおめでたいと里のおっかさんはやたらにめでたがる。
なるほど生まれべきものが恙無く生れたはめでたくもあろう。が、生れぬ先の先へ遡って考えてみると、人生の意義も分からず、その帰趣も知らず、漫然生殖欲に任せて、己に斉しきものを出来したのは、果たしてめでたい事として慶すべきであろうか、どうか?
この問題は十人の子を持った中老の今になっても、まだ、解決がつかぬ。

『茶洗髪』

この信仰問題はこれまで夫婦間に度々意見の交換された問題であるが、いつも解決の附いた例がない。博士の意見は多くの科学者のそれの如く、人間の思想は皆仮定説の上に築かれたものだ、神の存在を認めるというても畢竟仮定説に過ぎぬ、既に仮定説である以上は、よし二二ンが四というような三とも五とも他に仮定を許さぬ、所謂自明の理という程、確実らしい、殆ど疑いを容れぬる余地がない仮定説でも、仮定説それ自身の性質として誤謬が無いとは限らぬという思想を伴わねばならぬ、即ちconvictionは有り得てもbeliefは出ぬ筈である、一方から言えば其処に進歩の可能が含まれているので、beliefで世に処するとなると、人間の改良はあっても発達は止まる道理である。然らば人間はなぜ仮定説に依って生活するかと言えば、既に生命のある以上は、その生命を維持せざるを得ぬ、即ち生活せざるを得ぬ、勿論其処には生欲以外に何等の理由も認められぬから、人生の意義だの、帰趨だの、そのような事は更に分からぬけれど、生欲を拒むことが出来ぬゆえ、暫く成るようになって世を渡っているのである。従って道徳というものも、この生欲を生活の条件に当て嵌るより起ったもので、生活の必要以外に道徳の存在は認められぬ、夫の身を殺して仁を為すとか、朝に道を聞いて夕に死すとも可なりというのは、女の愛に溺れて心中するようなもので、道徳に深入りして道徳の目的に遠ざかるものだというのが、博士の意見の大要だが、それは意見で博士の生活はその意見通りでないことも往々ある。

『平凡』

さて、題だが……題は何としよう?此奴には昔から附け倦んだものだっけ……と思案の末、礑と膝を打って、平凡!平凡に、限る。平凡な者が平凡な筆で平凡な半生を叙するに、平凡という題は動かぬ所だ、と題がきまる。
次には書き方だが、これは工夫するがものはない。近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にもつかぬ事を、聊かも技巧を加えず、有りの儘に、だらだらと、牛の涎のように書くのが流行るそうだ。好いことが流行る。私もやっぱりそれで行く。
で、題は「平凡」、書き方は牛の涎。
さあ、是からが本文だが、此処らで回を改めたが好かろうかと思う。

親馬鹿と一口に言うけれど、親の馬鹿ほど有難いものはない。祖母は勿論、両親とても決して馬鹿ではなかったが、その馬鹿でなかった人達が、私の為には馬鹿になってくれた。勿体ないと言わずにはいられない。
私に何の取得がある?親が身の油を絞って獲た金を、私の教育に惜し気もなく掛けてくれたのは、私は天晴れ一人前の男に仕立てたいが為であったろうけれど、私は今眇たる腰弁当で、浮世の片影に潜んでいる。私が生きていたとて、世に寸益もなければ、死んだとて、妻子の外に損を受ける者もない。世間から見れば有っても無くてもよい余計な人間だ。財産なり、学問なり、技能なり、何か人より余計に持っている人は、その余計に持っている物を差し挟んで、傲然として空嘯いていても、人は皆その足下に平伏する。私のように何も無い者は、生活に疲れて路傍に倒れていても、誰一人振り向いて見てもくれない。皆素通りしてさっさと行ってしまう。たまたま立ち止まる者があるかと思えば、つらつら視て、金持なら、うう、貧乏人だと云う、学者なら、うう、無学な奴だと云う、而してさっさと行ってしまう。平生尤も親しらしい面をして親友とか何とか云っている人達でも、斯うなると寄ってたかって、てんでんに腹散々私の欠点を数え立て、それで君は斯うなったんだ、自業自得だ、諦めたまえ々々と三度回向して、彼方向いてさっさと行ってしまう。私は斯ういう価値の無い平凡な人間だ。それを二つとない宝のように、人に後ろ指を差されてまでも愛してくれたのは、生れて以来今日まで何万人となく人に出会ったけれど、その中でただ祖母と父母あるばかりだ。偉い人はこれを動物的の愛だとか言ってけなされるけれど、平凡な私の身にとってはこれほど有難い事はない。
もし私の親達にいわゆる教育が有ったら、斯うはなかったろう。必ず、動物的の愛なんぞは何処かの隅にそっとしまっておき、例の霊性の愛とかいうものを擔ぎだしてきて、薄気味悪い上眼をつかって、天からぶら下がった曖昧な理想の玉を睨めながら、親の権威を笠に被ぬ面をして笠に被て、其処ん処は体裁よく私をある型へ押し込もうと企むだろう。

寝られぬままに、私は夜着の中で今聞いた母の説明を反復し反復し味わってみた。まず何処かの飼犬が縁の下で児を生んだとする。小っぽけなむくむくしたのが重なり合って、首を擡げて、ミイミイと乳房を探している所へ、親犬が他所から帰ってきて、その側へドサリと横になり、片端から抱え込んでペロペロ舐めると、小さいから舌の先で他愛も無くコロコロと転がされる。転がされては大騒ぎして起き返り、又ヨチヨチと這い寄って、ポッチリと黒い鼻面でお腹を探り廻り、漸く思う柔らかな乳首を探り当て、狼狽てチウと吸い付いて、小さな両手で揉み立て揉み立て吸い出すと、甘い温かな乳汁が滾々と出てきて、咽喉へ流れ込み、胸を下がって、何とも言えずおいしい。と、腋の下からまだ乳首に有り付かぬ兄弟が鼻面で割り込んで来る。奪られまいとして、産毛の生えた腕を突っ張り大騒ぎやってみるが、とうとう奪られてしまい、又そこらを尋ねて、他の乳首に吸い付く。そのうちにお腹も満くなり、親の肌で身体も温まって、溶ろけそうなよい心持になり、つい昏々となると、含んだ乳首が脱けそうになる。夢心地にも狼狽てまた吸い付いて、一しきり吸い立てるが、直にまた他愛無く昏々となって、乳首が遂に口を脱ける。脱けても知らずに口を開いて、小さな舌を出したなりで、一向正体がない……そのとき忽ち暗黒から、茸々と毛の生えた、節くれ立った大きな腕がヌッと出て、正体なく寝入っている所をむんずと引っ掴み、宙に釣るす。驚いて目をポッチリ明き、いたいげな声で悲鳴を揚げながら、四足を張って藻掻く中に、頭から何かで包まれたようで、真暗になる。窮屈で息が塞りそうだから、出ようとするが、出られない。しばらく藻掻いているうちに、ふと足掻が自由になる。と、襟元をつままれて、高い高い処からドサリと落とされた。うろうろとして其処らを見回すけれど、何だか変な淋しい真暗な処で、誰もいない。茫然としていると、雨に打たれて見る間に濡れしょぼたれ、怕ろしく寒くなる。身慄い一つして、クンクンと親を呼んでみるが、何処からも出てこない。途方に暮れて、ヨチヨチと這い出し、雨の夜中を唯一人、温かな親の乳房を慕って悲しげに啼き廻る声が、先刻一度門前へ来て、また何処へか彷徨って行ったようだったが、それが何時かまた戻ってきて、何処を如何潜り込んだのか、今は啼声がまさしく玄関先に聞こえる。

今日はどうしたのか頭が重くてさっぱり書けん。むだ書きでもしよう。
愛は総ての存在を一にす。
愛は味わうべくして知るべからず。
愛に住すれば人生に意義あり、愛を離るれば、人生は無意義なり。
人生の外に出で、人生を望み見て、人生を恩議する時、人生は遂に不可得なり。
人生に目的ありと見、なしと見る、共に理智の作用のみ。理智の眼を抉出して目的を見ざる処に、至味存す。
理想は幻影のみ。
凡人は存在の中に住す、その一生は観念なり。詩人哲学者は存在の外に遊離す、観念はその一生なり。
凡人は聖人の縮図なり。
人生の真味は思想に上らず、思想を超脱せる者は幸なり。
二十世紀の文明は思想を超脱せんとする人間の努力たるべし。
こんな事ならまだ幾らでも列べられるだろうが、列べたって詰まらない。皆嘘だ。嘘でない事を一つ書いて置こう、
私はポチが殺された当座は、人間の顔が皆犬殺しに見えた。
これだけは本当の事だ。

私はその時分吉田松陰崇拝であった。将来の自由党の名士をもって自任しているのなら、グラッドストンかコブデン、ブライトあたりに傾倒すべきだが、どうしたはずみだったか、松陰先生に心酔してしまって、書風までつとめてその人に似せ、密かに何回猛士とか僭して喜んでいた迄は罪がないが、困った事には、こうなると世間に余り偉い人が無くなる。誰を見ても、まず松陰先生を差し向けて見ると、一人として手応えのある人物はない。皆一溜りもなく敗亡する。それを松陰先生の後に隠れて見ていると、相手は松陰先生に負けるので、私に負けるのでないが、何となく私が勝ったような気がして、大臣が何だ、皆門下生じゃないか。自由党の名士だって左程偉くもない。況や学校の先生なんぞは只の学者だ、皆くだらない、なぞと鼻息を荒くして、独りで威張っていた。私なぞの理想はいつも人に迷惑を懸けるばかりで、一向自分の足しになった事がないが、側から見たらさぞ苦々しい事であったろう。兎も角もこうして松陰先生大の崇拝で、留魂録は暗誦していた程だったが、しかしこの松陰崇拝が、不思議な事には、些っとも雪江さんを想う邪魔にならなかったから、その時分私の眼中は天下唯松陰先生と雪江さんと有るのみだった。

前にも断っておいた通り、私は嘗て真剣に雪江さんをどうかしようと思った事はない。それは決して無い。度々怪しからん事を想って、人知れずそれを楽しんでいたのは事実だけれど、勧業債券を買った人が当籤せぬ先から胸算用をする格で、ほんの妄想だ。が、誰も居ぬ留守に、一寸入らっしゃいよ、と手招きされて、驚破こそと思う拍子に、自然と体の震え出したのは、即ち武者震いだ。

「遊んでらっしゃいな」
と私の面を見上げた。ええとか、何とかいってもじもじしている私の姿を、雪江さんはヂロヂロ視ていたが、
「まあ、貴方は此地へ来てから、よっぽど大きくなったのねえ。今じゃ私とはきっと一尺から違ってよ」
「まさか……」
「あら……きっと違うわ。一寸そうしてらっしゃいよ……」
といいながら、ついと起ったから、何を為るのかと思ったら、ツカツカと私の前へ来てひたと向き合った。前髪が頤に触れそうだ。ぷんと好い匂いが鼻を衝く。
「ね、ほら、一尺は違うでしょう?」と愛度気ない白い面が何気なく下から見上げる。
私はわなわなと震い出した。眼が見えなくなった。胸の鼓動は脳へまで響く。息が逸んで、足が竦んで、もうじっとして居られない。抱き付くか、逃出すか、二つ一つだ。で、私は後の方針を執って、物をも言わず卒然雪江さんの部屋を逃出してしまった……

生死の間に一線を画して、人は之を越えるのを畏れる。必ずしも死を忌むからではない。死はと止むを得ぬと観念しても、ただこの一線が怕ろしくて越えられんのだ。私の逃出したのがやっぱりそれだ。女を知らぬ前と知った後との分界線を俗に皮切りという。私は性欲に駆られてこの線の手前まで来て、これさえ越えれば望む所の性欲の満足を得られると思いながら、この線が怕ろしくて越えられなかったのだ。越えたくなくて越えなかったのでなくて、越えたくても越えられなかったのだ。その後幾年か経って再び之を越えむとした時にもやっぱり怕ろしかったが、その時は酒の力を借りて、半狂気になって、ようやくこの怕ろしい線を踏み越した。踏み越してから酔いが醒めると何とも言えぬ厭な心持になったから、また酒の力を借りて強いてわずかにその不愉快を忘れていた。こんな厭な想いをしてまでも性欲を満足させたかったのだ。これは相手が正当でなかったから、即ち売女であったからかというふうに、そうでない。相手は正当の新婦と相知る場合にも、人は大抵皆そうだと云う。殊に婦人がそうだという。何故だろう?
之と縁のある事で今一つ分からぬ事がある。人は皆隠れてエデンの果を食って、人前では是を語ることさえ恥じる。私のようにこうして之を筆にして憚らぬのは余程力むから出来るのだ。何故だろう?人に言われんようなら事なら、為んがいいじゃないか?敢えてするなら、誰の前も憚らず言うがいいじゃないか?敢えてしながら恥じるとは矛盾でないか?矛盾だけれど、矛盾と思う者も無いではないか?どういう訳だ?
之を霊肉の衝突というか?しからば、霊肉一致したら、どうなる?男女相知るのを怕ろしいとも恥ずかしいとも思わなくなるのか?畜生と同じ心持になるのか?

卒然手を執って引き寄せると、お糸さんは引き寄せられる儘に、私の着ている夜着の上に凭れ懸かって、「どうするのさ?」と、私の面を見て笑っている……その時思い掛けず「親が大病だのに……」という事が、鳥影のように私の頭を掠めると、急に何とも言えぬ厭な心持になって、私は胸の痛むように顔を顰めたけれど、影になっていたから分からなかったのだろう、お糸さんは執られた手を窃と離して、「貴方は今夜は余程どうかしてらっしゃるよ」と笑っていたが、私が何時迄経っても眼を瞑っているので、「本当にお眠いのにお邪魔ですわねえ。どれ、もう行って寝ましょう。お休みなさいまし」と、会釈して起ち上がった様子で、「燈火を消してきますよ」という声と共に、ふっと火を吹く息の音がした。と、何物か私の面の上に覆さったようで、暖かな息が微かに頬に触れ、「憎らしいよ!」と笑を含んだ小声が耳元でするより早く、夜着の上に投げ出していた二の腕をしたたか抓られた時、私はクラクラとして前後を忘れ、人間の道義畢竟何物ぞと、嗚呼父は大病で死にかかっていたのに……

私はふっと目が覚めた、目が覚めたような心持がした。ああ、父は死んでいる……其処に死んでいる……骨と皮なかりの痩せ果てたその死顔がつい目の前に見える。之を見ると、私は卒然として、「ああ済まなかった……」と思った。この刹那に理屈はない、非凡も、平凡も、何もない。文士という肩書のない白地の尋常の人間に戻り、ああ済まなかった、という一念になり、我を忘れ、世間を忘れて、私は……私は遂に泣いた……