トマス・ド・クインシー『阿片常用者の告白』

犯罪者と不幸なる者とは自然的な本能によって公衆の注目を避ける。彼等は隠遁と孤独とを求め、墓の選択にあたってすらも、教会墓地の多くの人々から時々、自らを隔離する。それは恰かも人間という一大家族の仲間入りを謝絶するかのようである。そして(ワーズワーズの人を動かす言葉で云い現すと)
後悔のきびしさを
つつましく現す
ことを欲しているかのようである。

弱点と不幸とは必ずしも罪を含んでいるとは云われない。これ等は罪の陰影に近づきもし、又、それから遠ざかりもする。それは犯す人の色々の動機や見込みにより、又、知られているにせよ、秘められているにせよ、その罪の情状の如何によるものである。それの誘惑が初めから力強く、それに対する反抗が、行為或いは努力に於いて最後まで真摯である程度によるものである。

自分について云えば、私の生活は大体において哲学者のそれであったと、正直に、謙譲の徳を傷つけることなしに、確言することが出来る。私は生れた時から理知的な人間に造られた。学童の頃からしても、私の業務と娯楽とは、最も高い意味において、理知的であった。もし阿片を用ふることが肉欲的快楽であり、また、従来、他の人に於いて未だ記録されていない程に私がそれに耽溺したことを告白しなければならないとしても、次のことも等しく真実である。即ち私はこの魔力ある魅惑に対して宗教的熱意をもって抗争し、終に未だ嘗て他の何人に就いても、ついぞ聞いたことのないことをなし遂げたと云うことである。――私を緊縛していた呪うべき鎖を、その最終の連鎖に至るまでもときほぐして仕舞ったことである。

当時職工の賃金は、職工達にビールや火酒に親しませることを許さなかった。そして賃金が騰るとこの習慣が自ら止むと考えられるかもしれないが、私は誰でも一たび阿片の聖なる快楽を味わったものならば、以後アルコール飲料の粗悪な世俗的歓楽に低落しようとは容易に信じないものである。従って私は、
以前に喰わざりし者は今それを喰い、
常に喰ひし者は、いやましてそれを喰はん
ことは、無論のことと思う。

私はロンドンを訪れる毎に、彼女に会うことを期待して、巨万の女性の顔を覗き込んだと云っても差し支えない。この巨万という字は、私が本当に文字通りに、非修辞的に使用したものである。もし私が彼女を一寸でも見たら、千人の女性の間にあっても、彼女を見分けることが出来るであろう。その故は美しくはないが、彼女は愛らしい表現をしていたし、また、頭を動かす様子が、独特で優美であったから。――私は希望を抱いて彼女を探したことは既に述べた。多年の間まさにそうであった。けれども今では彼女を見るのを恐れている。そして彼女と別れる間際に私を悲しませた彼女の咳が、今では私のせめてもの慰めとなっている。私は今では、最早、彼女に会いたいとは思わない。そして彼女が久しい以前に墓穴の内に横たわっているものと考える方が嬉しい。悔い改めたメーリー・マグダリーンの如くに墓の内にあらんことを希望している。迫害と残忍とが、彼女の無邪気な性質を抹殺し変形して仕舞わないうちに、或いは悪党どもの残忍な行為が、既に始められた破滅を完成して仕舞わない内に、彼女が此世から取り去られて墓の内にあらんことを希望している。

酒の与える快感は、常に上騰的で、極点に向かい、それから下向する。阿片の快感は一たび生ずると、八時間乃至十時間持続する。前者は、医学の専門的区別を借用すれば、急性的快感であって、――後者は慢性的快感である。一つは火炎であり、他は一様不変の白熱である。しかし主要な区別は、酒は精神的作用を混乱せしめるに反し、阿片は(もし適当に取るとすれば)それ等の作用に精妙なる秩序、法則、調和をもたらすと云う点に存する。酒は人間から沈着を奪い、阿片は大いにそれを旺盛にする。酒は判断をかき乱し、曇らせ、飲酒者の侮蔑や称賛や愛や憎しみに異常の光輝と烈しい昂揚とを与えるに反し、阿片は能動的若しくは受動的な一切の能力に平静と均整とをもたらす。そして一般の気質や道徳的感情に関しては、判断力によって是認され、原始的若しくは大洪水前の健康の肉体組織に恐らくは常に付随するかも知れないような種類の活気ある温味を与える。斯くして例えば、阿片は、酒と同じく、感情や慈悲深い愛情に膨張性を与える。

主人と細君、時には一人二人の子供達から成り立つ多くの家族連れが、立ちながら彼等のやりくりや、財源の力や、家具の値段などを相談し合っているのに傾聴した。次第に私は彼等の願望や、難儀や、意見を知るようになった。時には不満のつぶやきを聞かせられもしたが、大概は顔や言葉に、忍耐と希望と静けさとが現れていた。そして一般的に云えば、少なくともこの点に於いて、貧乏人は金持ちよりも遙に哲学的である。――彼等は手のつけられぬ災禍又は快復出来ない損失と見做すものを直ちに快く諦める、と云わねばならない。

おお、正しき、精妙な、且つ偉大なる阿片よ!決して癒えることのない傷のためにも、「精神を叛逆するように誘う苦痛」のためにも、貧しき者、富める者の何れの心にも、等しく鎮痛の香膏をもたらすものよ!雄弁なる阿片よ!力強い汝の弁舌によって、汝は怒れる心を宥め、ひそかに其の目的をなくさせ、罪人には楽しかった青春の希望を、一夜の間、授け、殺戮の血より其の手を潔め、自尊心をもつものには、
正されざる不正、雪がれざる侮辱
に対して、暫くの忘却を授ける。また、汝は冤罪に苦しむ者を勝たしめるために、偽りの証人を、夢の法廷へ召喚して偽証を攪乱し、不正なる裁判官の宣告を覆す。――更に、また、汝は頭脳の不可能なる幻想から、フィディアスやプラクシテリーズの芸術にも優り、バビロンやヘカトンピロスの壮麗にも優る都市や殿堂を暗黒の中に築く。そして久しく忘れられた麗人の顔や、「墓の汚れ」から潔められて天福に浴する家族の面影を「夢見る眠りの混沌」から陽光の内に呼び来る。汝のみがこれ等の賜をわれらに授ける。まことに汝は楽園の鍵を持つ。おお正しき、精妙な偉大なる阿片よ!

私は少なくとも忘れるなどと云うことが心に出来るものでないと痛感している。偶発的な無数の出来事が、吾々の現在の意識と、心に記された秘密の銘刻との間に帳をはさむかも知れないし、また、はさむでもあろう。心の銘刻は、それが帳に包まれて居ようが居まいが、その何れの場合に於いても同様に、永久に残るものである。それは、丁度、星は白日の光に照らされて引き去るように思われるが、その実、吾々の誰も知っている通り、帳のように星の上に引かれるものは日光であって、――星は、自分を見えなくする日光が退去して自分の姿を現わし得る時期を待っているのである。

吾々の愛する人々の死と、実に一般に死なるものに就いての瞑想は(他の条件が同じであるならば)、一年中の他のどんな季節に於けるよりも、夏に於いて一層人の気持ちを感動させることを注意する機会を、私は私の生涯中の色々と異なった時期に於いて持った。そして次の三つのものが、その理由だと私は思っている。その第一は、夏に於いては、目に見える天が、他の時よりは、一層、高く、一層遠く、そして又(もしこんな誤った云い方が許されるならば)、一層無限に見え、吾々人間の眼が吾々の頭上に蔽い拡がっている蒼空の距離を主として量る標準とする雲は、夏に於いては、他の時よりも一層容積が大きくて、一層密集して居り、一層雄大に、一層堆く積み重なっていると云うことである。その第二は、傾き没しかける入日の光と外観とが、他の時よりは、一層無限の表象と記号となるにふさわしいと云うことである。そしてその第三は(実は之が主なる理由である)、夏に於いては、生命が豊富で、而もその豊富な生命が盛んに浪費されると云うことが、自ずと心を他の時よりも、一層力強く死と云う反対の思想や、墓場のまるで冬のような空疎の方へと無理にも駆り立てると云うことである。その故は二つの思想が反対の法則によって相互関係をもち、而も、云わば、相互反撥によって存在しているような場合には、御きまりにそれ等は、とかく、相互を暗示しがちなものであると云うことが概して云いうるから。暮れ時を知らぬかのような夏の永い日に、只独りで歩いている時、死に就いての考をどうしても心から駆逐出来ないのを自分が見出すと云うのは、全く斯う云った理由の為である。そして何か或る特別な死は、たとえそれが他の場合より以上に自分の心を感動させるようなことはないにしても、夏と云う季節に於いては、少なくとも他の時よりは、一層執拗にまた一層包囲的に、私の心に附きまとうて去らないのである。

私の以前の状態の記念物が、今も尚一つ残っている。つまり私の夢が未だ申し分ない迄には穏かでないと云うことである。嵐のあの恐ろしい波動と擾乱とが完全には静まってはいない。夢の中に陣取った多数の軍勢は退去しつつあるけれども、併しその全部が去ったと云う訳ではない。私の睡眠は今も尚騒々しい。そして遠方から振り向いて眺めた時、吾々人類の最初の両親の眼に映った楽園のように、その睡眠には、今もなお(ミルトンの恐ろしい詩行を借りて云うならば)
恐ろしき顔と燃ゆる武器とで群がっていた。

一方から云えば、約束とはそれが為される相手方の人数に反比例して、拘束力のあるのが、一般に異論のないところとされているようである。其の故に多くの人々は、私行上凡ての約束を宗教的に守りながら、全国民に対して為した約束を躊躇なく破るのはよく見受けられる。