ジェームズ・ボールドウィン『もう一つの国』
父親はこういったものだ――ニグロは一生ビートに従って生きるんだ。生きるもビート、死ぬるもビート。ほいさ、やるのもビートだわな。赤子のうちからおふくろのあそこでビートに合わせてとんだりはねたり、九ヶ月たって出て来るときにはタンバリンそっくり。ああ、ビート――手、足、タンバリン、ドラム、ピアノ、笑声、悪態、剃刀の刃。身を堅くして笑ったりわめいたり悦に入ったりしてる男たち、しっとりと身をくねらせてささやいたり吐息をついたり泣いたりしてる女たち。ああ、ビート――ハーレムでは、夏には、それが目に見えるくらい、舗道の上や屋根の上でちらちらと震えている。
そして彼は、そうしたハーレムのビートから逃げ出したのだ(そう彼は思っていた)が、それは実は、彼自身の心臓の鼓動(ビート)にすぎなかった。そして彼は、南部の海軍教育隊にとびこんだ。それから波濤はるかな大洋に乗りだした。
「あきれたな!」そういって彼はカラカラと笑った。「ほんとにおかしな女だ。おれだってきみを愛している。知ってるだろうが」
「そうあってほしいわ」と、彼女はいった。
「きみはおれを実によく知ってるはずじゃないか。それでいて、そのことは知らないのかね?きみのいう直観はどうしたんだい、その――特製の――観点はさ」
「ある点を越えると、どうもよく働かないらしいのよ」不満そうな微笑を浮かべて彼女はいった。
彼は椅子から彼女を引っぱりあげて両腕に抱きしめ、その髪に頬を寄せた。「ある点って、どの点かね、ダーリン?」
髪にしみこむ彼の息も、彼の腕も、胸も、そのにおいも、何もかも彼女にはなつかしいものばかり、離れがたく、いうにいわれずいとおしい。彼女は心持ち首をまわして台所の窓から外を見やった。「あなた」と彼女はいった。そして冷たい月の光を見つめた。彼女は冷たい河と、彼らの友だちの死んだ黒人の青年のことを思い浮かべた。そして眼を閉じた。「あなた」彼女はまたそういった「あなた」
自分の小説のなかの人物がじゅうぶんつかめていないような気がするのだ。彼らが彼を信用していないような感じなのだ。役割は全部きまっている。その辿るべき運命もわかっている。彼らに描かせようと思う人生模様もはっきりと見えている。ところが、それが彼らにははっきりしないらしいのだ。彼は彼らを動かすことができるけれど、彼らが自分で動くことをしない。彼らにしゃべらせることばも、彼らはいやいや口に出すだけで、すこしも納得していない。女をくどくときと同じ、あるいはそれ以上の苦労を重ねながら、彼は自分の作中人物をくどいた。めいめいが堅く秘めている心の秘密をうちあけてくれるように懇願した。ところが彼らはいうことをきかない――かたくなに殻をとざしながら、それでいて彼のもとを去ろうとする気配を露ほども示さない。彼がつぼを探りあて、力をつくし、真実を語るのを待っているのだ。そのときこそ、彼の望むものをすべて与えてやろう、彼がいま描こうとしている以上のものを提供してやろう、そううったえているような感じなのである。
彼はすこし起きあがるようにして彼女の顔を見守った。この顔は、これから永久に、他人の顔よりもいっそう神秘的で、いっそう不可解なものとなるであろう。他人の顔には謎がない。想像力が働いて謎を付与するということがないからだ。とkろが、恋人の顔は、こちらの持っているものをいっぱいそこに投影するものだから、これは未知の国になる。それはひとつの神秘だ。あらゆる神秘と同じように、苦悩を与える可能性を孕んだ神秘である。
「ぼくはね、永久に<街の男>でいなけりゃならないのかと思ってたんだ。おふくろとおんなじなのかとね」彼はまた窓の方へ顔を向けた。「ところが、ここの家にあんたと暮らして、そうじゃないってことがようやくわかったんだ。淫売の出だからって、淫売にならなきゃならんとはかぎらない。ぼくはもっとましな人間だった」彼はことばをきった。「それをわからせてくれたのがあんただった。実際へんな話さ、だって、実をいうと、ぼくは最初、あんたはぼくをそんなふうに見てると思ってたんだ。あんたも、きれいないかがわしい男の子を探してるいやらしいアメリカ人なんだろうと、そうぼくは思ってたんだ」
「しかし、きみはきれいじゃないからな」エリックはそういって、ウィスキーをすすった。「簡単にいって、どっちかといえば醜いほうだぞ」
「いや、まったく」
「きみの鼻は天井を向いてる」そういって彼はイーヴの鼻先をさすった。「それから口が大きすぎる」――イーヴは笑った――「額は高すぎるし、もうじき頭もつるつるになるぞ」彼はイーヴの額をさすり、髪の毛を撫でた。「それからこの耳。いや、これはまるで象の耳だね。さもなきゃ飛行機の翼だ」
「ぼくのことを醜男といったのは、あんたがはじめてだ。たぶん、そいつにぼくはいかれたんだな」そういって彼は笑った。
「しかし、きみの目は、これは悪くないぞ」
「いうもんだねえ。ぼくは、これで、なかなかもてるんだよ」
「なるほど、なるほど。おまえが自分からそういうのならおれもいってやるが、さぞもてたろうとはおれも思うよ」
ふたりはしばらく黙っていた。
「ぼくはひどい人間をいっぱい見させられたんだ」沈痛な声でイーヴはいった。「あんまり早くから、あんまり長い間ね。実際、とことんまで荒んでしまわなかったのが不思議なくらいだ」そういって彼はウィスキーをすすった。エリックのところから、その顔は見えなかったけれど、どんな表情をしているか、見当はついた。ひどく若くきびしくいらだたしく、そこへ苦痛と恐怖からくる酷薄な感じが漂っていることだろう。
「たまのゲームは男と女でやるのがほんとうだと思うよ。肉体的にもそのほうが簡単だしな」かれはすばやくエリックを見やりながら「そうだろ?」といって、それから「子供のこともあるし」と、つけ加えて、またすばやくエリックを見た。
エリックは笑いだした。「大きさがあわないからあきらめるなんて話はきいたことがないぜ。愛していれば、なんとか方法を見つけるものさ、トッサン。おれは球戯を知らんから、人生が球戯かどうか知らんが、きみにとっちゃたぶんそうなんだろ。おれにとっては違うな。それから子供のことだがね、子供がほしけりゃ、五分で作れるぜ。しかも愛したりなんかする必要はない。毎年生まれてくる子供たちが愛情から生れるんだったら、ホウ!だ。この世はなんと輝かしい世界でありましょう!」
ヴィヴァルドは、胸の奥底から、心ならずも、ある憎悪がこみあげてくるのを感じた。それを彼は、吐き気でも抑えるようにして抑えようとした。「きみはみんなをきみのように不幸にsたいと思ってるのか、それとも、みんなもきみのように不幸なはずだといいたいのか?」
「さあ、そういういい方はやめてくれ。きみ自身は幸福か?それはおれとなんの関係がある?おれがどう生きようと、何を考えようと、どんなに不幸だろうと、なんの関係もないだろ――きみ自身はうまくやってるのか?」
その質問は、ふたりの間にゆれる煙のように、いつまでも部屋の中に垂れこめていた。ふたりの間に落ちた沈黙と同じくらいに重い質問であった。
「こっちへきてどのくらいになるの?」
「二年です」彼はそういってまた笑顔を向けた。「わしは運がよくてね。一生懸命働いてとにかくやっている」彼はことばをとぎらせたが、「ただ、ときどき、淋しくってね。だから歌を歌うんです」ふたりはそこで笑った。「歌えば時間が経つんでね」
「お友だちはいないの?」
彼は肩をすくめた。「友だちは金がかかるんでね。わしには金もないし暇もない。郷里の家族へ金を送らねばならないので」
「あら、奥さんがあるの?」
彼はまた肩をすくめて、彼女のほうへまた横顔を見せたが、その顔に微笑はなかった。「いや、女房はいません」そういってにやりと笑うと「これもまた金がかかるんで」
「しかしね」エリックがおもむろにいった「あの人はすでに傷ついたんだ。なにも――あっぱれな人間でなくたって――傷の痛みは感じるさ」
「それはそうだ。しかしだよ、傷ついたときに、もしその仕返しをしようとしなかったら、それがもうあっぱれな人間になる一歩をふみ出してることだと思うがな」彼はエリックを見て、その首筋に片手をかけた。「おれのいう意味、わかるかね?きみの命を奪いそうな痛みでも、それを甘受することができれば、きみはそれを活用することができる、それによってきみは向上することができる」
エリックは、微笑ともつかぬ奇妙な微笑を浮かべて彼を見つめている。その顔には愛情と苦痛がいっぱいに現れていた。「それはとてもむずかしいことだな」
「むずかしくても、やろうと努めなくちゃいけない」
「わかってる」エリックは、ヴィヴァルドを見つめながら慎重にいった。「さもないと、だめにされたそこのところで止まってしまうからな。そして同じことを何度でも何度でも引き起こす。そして人生そのものが停止してしまう。動くことも、変えることも、愛することもできなくなるからな」
彼はじっと茶碗の中を覗き込みながら、ブラックのコーヒーといったって完全に黒くはないんだな。むしろ濃い茶色じゃないか、と、そんなことを考えていた。ほんとうに黒いものなんて、世の中に多くはない、夜だって、炭坑だって、完全な黒ではない。そういえば、光もまた白くはない。どんなにあわい光でも、そのなかには、もとの火の気配が何か漂っている。彼は胸の中で考えた――とうとう、摑まえたかったものを摑まえたのだ、アイダのなかの真実を、あるいは真のアイダというものを。だが、それといっしょにどう生きたらいいのか、それが彼にはわからなかった。