クローニン『孤独と純潔の歌』

「ひどい怪我をしたんだね、おじいちゃん」
「ああ、そうらしかったな」
「じゃ、そのときだったの……鼻がそんなになったのは?」
彼はおごそかにうなずくと、想い出なつかしそうに、その巨大な鼻を愛撫した。「こいつはな、坊や……毒をぬった……投槍が……じかに当ったんだよ」彼は日光をさえぎるように、帽子をまぶかにかぶり直すと、回想口調で言葉をむすんだ。「女王さまご自身、バルモラルの宮殿で勲章をくださるとき、気の毒であったなとおっしゃったものだ」
私はあらたな畏怖の念と愛情とにかられて、彼を注視した。おどろくべき英雄、おじいちゃん!二人してラムバック・アームズ亭からローモンド・ヴューへ帰る途みち、私はおじいちゃんの手をぎゅっと握りしめた。

ここでおばあちゃんはぬぐのをやめて、左手をほとんど魔法のようなすばやさで動かして義歯をはずしたが、これはまるで手品のような早業で、とたんに顔がくしゃくしゃと崩れてしまった。それまでのいかめしかった容貌が、好ましい柔和なものに一変した。それでも、その歯をベッドわきの水の入ったコップに入れてしまうと、おばあちゃんは白いナイトキャップをかぶって、リボンを頤の下できつく結んだが、そのためか、いくぶん顔の造作の厳格さは。もとにもどったようだった。

「緑はやつの色!青はそいつのおふくろだ」この洒落はダルグリーシュ先生のより露骨だが、同じ流れを汲むものだった。一人の老婆の不幸なペチコートが、人種的宗教的な憎悪を、一滴のこらず掻き立てたのだ。昼食の時間になると、私は狭い便所にとじこもり、大黄のジャムをぬって紙にくるんだパンは、膝の上にのせたまま手もつけなかった。が、発見されて、むりに明るい外へつれ出された。

彼は私を二度ノックダウンさせて、わっと喝采を浴びた。それまでの私は、自分がそんない怒れるものだとは、思ってもいなかった。この下劣な喝采のおかげで、私はそれを発見することができた。そうだ、たしかに、あらゆる人間のうち、いちばん下劣きわまるのは、同じ人間同士が戦ったり苦しんだりしているのを、高見の見物と洒落てよろこぶ手合である。そういう実際の敵に対する激しい怒りが、骨の髄からわいてきた。ぼうとかすんだ、ニヤニヤ笑っているかれらの顔に接すると、私にも、自分の真価を見ておれという気持ちが猛然と起ってきた。私は砂利のなかから起き上がると、再びギャヴィンにぶつかって行った。

まる一分間、私は愕然として、小さな両手に握ったこの牛を――肉という肉の純化、罪の誘因を、化石したようにじっと見つめていた。が、やがて、ワッと一声すすり泣くと、私はがぶりとそれに喰いついた。歯はつき刺し、引き裂き、むさぼった。ああ、そのおいしさ。私は復讐の天使のことも、ロッシュ神父のことも忘れてしまった。塩のきいた、肉の味のする汁を、罪深い唇で吸った。肉欲的な喜びで、指先をなめた。そして、さいごの一口まで平らげてしまうと、満足と勝利の大きな溜息を、胸の底からほうっと吐き出した。
そのとき私は、自分のやったことに気がついて、慄然とした。罪。堕地獄の罪。畏怖にみちた沈黙の一瞬。ついで、はげしい悔恨の波が、あとからあとから襲いかかってきた。神父の黒い目が、私の眼前できらきら光った。もうこれ以上は堪えられない。私はどっと溢れる涙とともに、二階のおじいちゃんの部屋へ駈けあがった。

医者は出て行った。ヴィタ伯父さんが通りをずっと追って話したが、謝礼は一文も受けとらなかった。私はそこで、医者の興味が純粋に科学的なものだったことをさとった。それはすでに顕微鏡に向かったとき私の心をかきたて、また後年、自分の人生において、ごく稀にではあるが、絶大な喜びを与えてくれた、あの不思議な、美しい、全く私心のない感情だった。この瞬間、私は人種も理想も同じだという気持ちで、胸がいっぱいになり、この寡黙なスコットランド人の医者に対して、身うちのふるえるような誇りを抑えることができなかった。この一家のような激しやすい南欧人の間にあって、彼のふるまいのなんと完璧だったことか!

アダムとおじいちゃんが往来に姿を見せたのは、そろそろ夕闇の迫ってきた時分だった。帽子なしで、失くした上衣のかわりに、警官の古服を、ボタンもかけず、前を開けたままで着ているおじいちゃんは、昂然としているようでも、どことなく元気がなさそうだった。目は光らせていたが――それも内心の不安を示す、鎧の裂け目にちがいなかった。私はひとり寂しく心配なまま、客間の窓ぎわにうずくまっていたが、そんな姿をちらっと見ただけで、階段をかけ下りると、おじいちゃんの部屋へかくれてしまった。
部屋のなかで、じっときき耳を立てていると、玄関のドアのあく音につづいて、おそろしい混乱がはじまり、アダムが大声で非難するのや、ママが泣き悲しむのや、パパがぶつぶつ悪罵するのが、いっぺんに入りまじってきこえてきたが、おじいちゃんはひとことも、声らしい声を立てなかった。
やがて、おじいちゃんは浮かぬ足どりで、そろりと二階へやってきて、自分の部屋へ入った。情けないほど汚れてしまい、ひげはぼうぼうと生えているし、なんともいえぬ嫌な匂いを発散させていた。
入ってくるなり、ちらっとすばやく私に目をやると、そのまま部屋のなかをうろうろしはじめ、平気をよそおって鼻歌をうたおうとしたが、うまく声が出なかった。ついでおじいちゃんは、ずっと前にママがうやうやしくベッドの上においといた、つぶれてまだぬれたままの帽子をとり上げた。一瞬それをじっと見ていたが、さりげなく私の方を向いた。
「型に入れれば、まだ使える。なにしろすてきな帽子だったからな」

さて、香とローソクの匂いのしみこんだ、この神聖な雰囲気につつまれると、おじいちゃんに対する深い、そして当然の憤りがむらむらと燃え上がってきた。おじいちゃんは、人間としてもっとも大切な、唯一の美徳の侵犯者なのだ。私は白いドレスを着たアリスンのことを思った。アリスンに対する私の愛、思春期におけるこの初恋は、彼女を至高な高み、天使のようなものにまで昂めていた。私の顔は恥ずかしさで火のように燃えた。あんなことをする祖父をもった男の子を、はたして彼女はどんな目で見るだろう。怒りが胸にこみあげてきて、キリストが悪人ばらを神殿から追いはらった故事を想い起こし、おじいちゃんにこのことを言ってはっきりさせよう、そして今日限り縁を切ろう、そう決心して立ち上がった。
家へもどると、玄関の間で顔を合わしたのはおじいちゃんで、とても喜んで私を迎えてくれた。そのうしろから、すばらしくおいしそうな料理の匂いがしてきた。
「散歩をする気になってよかった。歩いてくると、ずっとよく勉強ができるからな」
私は冷ややかな軽蔑の目でちらっと見やった。大天使が、身悶えする悪魔を、射すくめたような一瞥だった。「今日の午後、なにをしてたの?」
おじいちゃんはとぼけ切った顔で微笑すると、こともなげに答えた。「いつもとおんなじさ。共同墓地でボーリングをやってたよ」
ああ!おまけに嘘までつく。嘘つきの狒々爺だ!だが、私が正面きって対決しようとする前に、おじいちゃんは玄関の間から出て行ってしまった。
「台所へおいで」おじいちゃんは落ちつきはらって、なんの屈託もなく、思いやりのある様子で、両手をすりあわせていた。「野菜のスープをこしらえといたよ、うますぎて頬っぺたが落ちるかもしれんぞ」
私は台所へ入って、おじいちゃんが流し元に行っている間に、食卓についた。頭はもやもやしていたが、とても空腹だった。
やがておじいちゃんが、湯気の立っている肉汁の大鉢をもって入ってきた。私の気をまぎらせ、自分の料理の腕を見せびらかすために、おじいちゃんはママのエプロンをかけて、コック長の帽子のつもりか、元来なら尊敬すべきその古狸の頭に、ナプキンを巻いているのだ。ほとんど何もかもを――全部とはいわないが――台なしにしたこの悪魔も、こんな格好をすると、まるでサーカスの道化師、あわれなおどけ役者そっくりだった。
私は濃いスープにスプーンを入れた。スープには豆や、きざんだ人参や、ひな鶏のこまかい肉がいっぱい入っていた。私はそれを口にもって行ったが、おじいちゃんは愛情のこもった期待の表情で、じっと見まもっていた。
「うまいだろう?」とおじいちゃんがきいた。
とてもおいしかった。私は一滴も残さず平らげた。それから私は、自分を憎悪と侮蔑に追いやったうえ、青春の神聖な信頼を裏切り、自分としては罪の原因であり機会であるとして避けなければならない、このばかげた、けがらわしい
老人をじっと見まもった。いよいよ正面から非難を浴びせるときがきたのだ。
「もう一ぱい食べていいの、おじいちゃん?」不甲斐なくも、私はそうきいてしまった。

私はすっかり疲れて、両手をポケットにつっこんだまま歩いていたが、ふと指先が小さなメダルにふれた。お伽噺をそっくり信じていた、まだ頑是ない子供のころ、修道院バイカウツギのしげみのそばに坐っていたとき貰った、「霊験あらたかな」メダルだった。と、ふいにはげしい歔欷が、胸から咽喉へこみあげてきた。私はその神聖なメダルをとりだして、ふるえながらほうり投げてた。子供を破滅させ、殺害し、その心を打ちくだくような神は、もうこりごりだ。地上に神はない、正義もない。すべての希望は消失した。天国への盲目的反抗よりほかには、もうなんにも残ってはいないのだ。
ギャヴィンは自分の部屋の、自分のベッドに横たわって、深い眠りについている――永久に目ざめることのない夢のなかに。彼は瞼をとじ、顔は不感不動のまま、夢につつまれている。依然として誇り高く、毅然として、あらゆるものから遠く、はるかに離れているのだ。
泣きはらして赤い目をしたジュリア・ブレアは、無言のまま私にギャヴィンの靴を示した。その頑丈な踵を、彼はレールの転轍線に挟まれて、なんとか足を抜きだそうと、ほとんどねじりとらんばかりにしていたのだ。そうだ、彼は屈服しはしなかった。彼の夢のなかで、あの勇敢な心臓は、絶対にくじけることなく、いまも横たわっているのだ。

私はこれ以上この問題で争おうとはしなかった。二人の考えかたがまるでちがうのに、気がつきだしたのだ。落ちついた性質で、親しみやすいし、自制心はあるし、アリスンは私に欠けているものを、みんなもっていた。頭はよくないかもしれないし、ユーモアもあまりあるとはいえないが、頭の廻転の遅いかわりに、実際的な常識は多分にもっていた。それに、なかなか野心的で――それも私のような激しい、大げさなものでなく――自分の才能を最大限に活用しようという、論理的な欲求だった。彼女は声楽家になるためには、勉強と研鑽と犠牲とが必要だという事実を、はっきり認識して、決意をもってこれに直面していた。その練習ぶりは――たとえば、「長い」音階を歌ったり、或いは一つの楽句を二十秒間つづけられるようになるための、あの深い呼吸は、彼女に一種の完全な肉体的均衡を与えていた。それにしても、そうした平静さの下に、このつややかな栗色の髪のジュノーは、自分自身の堅い意志をもっているのだった。