二葉亭四迷『浮雲』

親の前でこそ蛤貝と反身れ、他人の前では蜆貝と縮まるお勢の事ゆえ、責まれるのが辛さにこの女丈夫に取り入って卑屈を働く。固より根がお茶ぴいゆえ、其風には染り易いか、忽の中に見違えるほど容子が変わり、何時しか隣家の娘とは疎々しくなった。其後英学を始めてからは、悪足掻きもまた一段で、襦袢がシャツになれば唐人髷も束髪に化け、ハンケチで咽喉を緊め、鬱陶敷を耐えて眼鏡を掛け、独りよがりの人笑わせ、天晴一個のキャッキャとなり済ました。

「だから貴嬢には私が解らないというのです。貴嬢は私を親に孝行だと仰るけれども、孝行じゃあ有りません。私には……親より……大切な者があります……」
ト吃りながら言って文三は差俯向いて仕舞う。お勢は不思議そうに文三の容子を眺めながら
「親より大切な者……親より……大切な……者……親より大切な者は私にも有りますワ」
文三はうな垂れた頸を振揚げて
「エ、貴嬢にも有りますと」
「ハア有りますワ」
「誰……誰れが」
「人じゃあないの、アノ真理」
「真理」
文三は慄然と胴震をして唇を喰いしめた儘暫く無言。稍あって俄に喟然として歎息して
「アア貴嬢は清浄なものだ潔白なものだ……親より大切なものは真理……アア潔白なものだ……しかし感情という者は実に妙なものだナ、人を愚にしたり、人を泣かせたり笑わせたり、人をあへだり揉んだりして玩弄する。玩弄されると薄々気が付きながら其れを制することが出来ない。アア自分ながら……」
と些し考えて、稍ありて熱気となり
「ダガ思い切れない……どう有ッても思い切れない……お勢さん、貴嬢は御自分が潔白だから是様な事を言ッてもお解りがないかも知れんが、私には真理よりか……真理よりか大切な者があります。去年の暮から全半歳、その者の為に感情を支配せられて、寝ても覚めても忘らればこそ、死ぬより辛いおもいをしていても、先では毫しも汲んで呉れない。寧ろ強顔なくされたなら、また思い切りようも有ろうけれども……」
ト些し聲をかすませて
「なまじい力におもうの親友だのといわれて見れば私は……どうも……どう有ッても思い……」
「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ、ちょっと御覧なさいヨ」

「アア佳こと」
トいって何故ともなく莞然と笑い、仰向いて月に観惚れる風をする。其半面を文三が盗むが如く眺め遣れば、眼鼻口の美しさは常に異ッたこともないが、月の光を受けて些し蒼味を帯んだ瓜実顔に、ほつれ掛かったいたずら髪、二筋三筋扇頭の微風に戦いで頬の辺を往来する所は、慄然とするほど凄味が有る。暫く文三がシケシケと眺めているト、頓て凄味のある半面が次第次第に此方へ捻れて……パッチリとした涼しい眼がジロリと動き出して……見とれていた眼とピッタリ出逢う。螺の壺々口に莞然と含んだ微笑を、細根大根に白魚を五本並べたような手が持ていた団扇で隠蔽して、恥かしそうなしこなし。文三の眼は俄に光り出す。

心を留めて視なくとも、今の家内の調子がむかしとは大いに相違するは文三にも解る。以前まだ文三が此調子を成す一つの要素で有ッて、人々が眼を見合わしては微笑し、幸福といわずして幸福を楽しんでいたころは家内全体に生温かい春風が吹き渡ったように、総て穏かに、和らいで、沈着いて、見る事聞く事が盡く自然に適っていたように思われた。そのころの幸福は現在の幸福ではなくて、未来の幸福の影を楽しむ幸福で、我も人も皆何か不足を感じながら、強ちにそれを足そうともせず、却って今は足らぬが当然と思っていたように、急かず、騒がず、優遊として時機の熟するを竢っていた、その心の長閑さ、寛さ、今憶い出しても、閉じた眉が開くばかりな……そのころは人々の心が期せずして自ら一致し、同じ事を念い、同じ事を楽しんで、強ちそれを匿くそうともせず、また匿くすまいともせず、胸に城郭を設けぬからとて、言って花の散るような事は云わず、また聞こうともせず、まだ妻でない妻、夫でない夫、親でない親、――も、こう三人集まったところに、誰が作り出すともなく、自らに清く、穏かな、優しい調子を作り出して、それに随れて物を言い、事をしたから、人々が宛も平生の我よりは優ったようで、お政のような婦人でさえ、尚お何処か頼母し気な所が有ったのみならず、却ってこれが間に介まらねば、余り両人の間が接近しすぎて穏かさを欠くので、お政は文三等の幸福を成すに無くて叶わぬ人物とさえ思われた。が、その温かな愛念も、幸福な境界も、優しい調子も、嬉しそうに笑う眼元も口元も、文三が免職になってから、取り分けて昇が全く家内へ立ち入ったから、皆突然に色が褪め、気が抜け出して、遂に今日此頃の此有様となった……
今の家内の有様を見れば、最早以前のような和らいだ所も無ければ、沈着いた所もなく、放心に見渡せば、総て華やかに、賑やかで、心配もなく、気あつかいも無く、浮々として面白そうに見えるものの、熟々視れば、それは皆衣物で、裸体にすれば、見るも汚らわしい私欲、貪婪、淫褻、不義、無情の塊で有る。以前人々の心を一致さした同情も無ければ、私心の垢を洗った愛念もなく、人々己一個の私のみを思って、己が自恣に物を言い、己が自恣に挙動い、欺いたり、欺かれたり、戯言に託して人の意を測ってみたり、二つ意味の有る言を云ってみたり、疑ってみたり、信じてみたり、――いろいろさまざまに不徳を尽す。