夏目漱石『夢十夜』

第一夜

自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分からない。勘定しても、勘定しても、しつくせない程赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。仕舞には、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に詐されたのではなかろうかと思い出した。
すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなって丁度自分の胸のあたり迄来て留まった。と思うと、すらりと揺らぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹える程匂った。そこへ遙の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」と此の時始めて気が付いた。

第六夜

「能くああ無造作に鑿を使って、思う様な眉や鼻が出来るものだな」と自分はあんまり感心したから独言の様に言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出す迄だ。丸で土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違う筈はない」と云った。
自分は此の時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。果たしてそうなら誰にでも出来る事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫って見たくなったから見物をやめて早速家へ帰った。
道具箱から鑿と金槌を持ち出して、裏へ出て見ると、先達ての暴風で倒れた樫を、薪にする積りで、木挽に挽かせた手頃な奴が、沢山積んであった。
自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当たらなかった。其の次のにも運悪く掘り当てる事が出来なかった。三番目のにも仁王は居なかった。自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。遂に明治の木には到底仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日迄生きている理由も略解った。