D.H.ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』

「それで、おひとりなんですの」とコニーがたずねた。
「と申しますと?一人で暮らしているか、という意味ですか。従僕が一人おります。ギリシャ人だとか自分ではいってますがね、じつに能なしです。だが、置いています。それに、ぼくは結婚をするつもりです。そう、ぜひ結婚しようと思っています」
扁桃腺でもとるような調子ですわね」とコニーは笑っていった。「結婚というものは努力でしょうか?」
彼は讃美するように彼女を見た。「そうですね、チャタレイ夫人、いくらかそんなものじゃないでしょうか、ぼくは……失礼ですが……イギリスの女性と結婚する気になれません、アイルランドの女性とも……」
アメリカ人はどうです」とクリフォードがいった。
「いやあ、アメリカ人なんか!」彼は空虚に笑った。「だめです、ぼくは召使に、トルコ人かなにか……東洋人になるたけ近いものを見つけてくれと頼んであるのですよ」

この世の中は可能性にみちていると思われているが、その可能性も、ほとんどの個人的な経験のごくわずかなものに局限されている。海には立派な魚がたくさんいる……おそらくいるだろう……だが、その大部分はさばかにしんに思える。あなた自身はさばやにしんでないにしても、そうやたらと立派な魚など海の中に見当たるものではない。

「ぼくは知識の話をしていたんじゃない……精神生活について語っていたんだよ」とデュークスが笑っていった。「ほんとうの知識というものは、意識全体、頭脳や精神からと同じく、腹とペニスからも生まれるものだよ。精神にできることは、分析すること、理論化することだけさ。精神と理性とをほかのものより上位においてみたまえ。できることといえば、批判すること、死物化することだけだ。それっきりさ。こいつはきわめて重大なことだよ。いまの世の中は批判を必要としている……死ぬまで批判することを。だから、精神生活を送り、憎悪を誇り、くさった古い見世物の面の皮をひんむくべしだ。だがね、いいかい、人間はまだ、生活をしている間は、なんらかの意味で、あらゆる生活との一個の有機的統一体なのだ。だが、ひとたび精神生活をはじめると、りんごをもぐことになる。りんごと木との間のつながり、つまり有機的なつながりをたち切ってしまうのだ。しかも、生活の中に、精神生活しかもっていないとすると、人間はもがれたりんご同然になる……木から落ちてしまうのだ。そして、もがれたりんごのくさるのが、自然な必然性であると同様に、憎悪を抱くようになるのは、論理的な必然だよ」

コニーは寝室にはいると、ながい間しなかったことをしてみた。着物をすっかりぬいで、大きな鏡に自分の裸身を映して見ることである。自分が何を求めているのか、あるいは、何を見ようとしているのか、はっきりとはわかっていなかったが、それでも、光線がまともに当たるように灯りを動かした。
そしていままで幾度となく思ったことではあるが、いまもまた思った……人間の体というものは、裸で見ると、なんと脆弱な、すぐにも傷つきそうな、悲しいものだろう。どことなく、すこし未完成で、不完全なところがある。

「ちょっと森の向こうまで、ほら、この水仙、かわいいでしょう。こんなものが地面から出て来るなんてねえ!」
「空気や日光からもできるよ」
「でも、形は地面の中でできるんですわ」と彼女は即座にやりかえして、われながらちょっと驚いた。

ここの工業技術の研究は、芸術だとか、文学だとかいう、まぬけた、貧弱な感情の産物より、はるかに興味深いものであった。この分野においては、人間は、神か悪魔に似たものとなって、霊感にさそわれて、もろもろの発見を試み、すすんで実践の領域にはいりこんでいくのであった。こういう活動において、人間はもうその知能年齢では数えられないほどに進んでいるのであった。しかし、クリフォードは、これがこと感情生活、人間生活になると、これら独立独行のはずの人間が、知能的には十三歳くらいの低能児になってしまうことを知った。この矛盾たるや非常なものであり、驚くべきものであった。
だが、それなら、それでもかまわない。人間が感情的考え方や『人間的』思考をして、一般に痴呆状態に落ちていくなら、それもよかろう。いまのクリフォードは、そんなことはかまわなかった。

「馬鹿な男だと、頭のないやつだっていうでしょう。卑劣なやつには、心がないというでしょう。臆病者には、腹がないというでしょう。男にあのたくましい勇気がまるでないときには、きんたまがないというでしょう。飼いならされたようなやつの場合ですよ」