トーマス・マン『ヴェニスに死す』

芸術は普通の人生よりも人を深く幸福にするが、また人を急速に疲らせる。芸術は、自己の奉仕者の面貌に幻想的で精神的な冒険の痕跡を遺す。芸術はまた、情欲をその赴くがままに赴かしめる享楽生活がほとんど結果しえぬがごとき、神経の驕慢、過敏、疲労、好奇心を、たとい外面的な生活が僧院のように静かなものであっても、永いあいだには結果するのである。

美は人をはにかみ屋にする、とアシェンバハは考えた。そしてなぜであるかを徹底的に考えてみた。しかしタドゥツィオの歯があまりよくないのも見てとった。先がぎざぎざして、色が蒼白く、からだの丈夫な人間の歯が持っている光沢がなく、妙に脆そうな、萎黄病の人によく見かけるような透明な歯だった。ひよわく、病気がちなのだ、とアシェンバハは思った。どうも永生きしそうにはない。しかしアシェンバハは、そう考えた時に感じた満足ないしは安堵の気持ちの、拠ってきたるところを究めることは断念した。

顔見知りというだけのことで、日々刻々顔を合わせながら、互いに見合いながら、挨拶もせず言葉も交わさず、作法や自分の気紛れなどに強制されて、さりげない冷淡さを装うという人間同士の関係ほど不思議で微妙なものはあるまい。そういう人間のあいだには落ち着きのなさと、極度に敏感な好奇心と、満足させられていない、不自然に抑圧された知識欲と交際欲のヒステリー的状態、ことにまた一種の緊張した尊敬心とがある。けだし人間というものは、相手に判断を下しえないでいるあいだだけ、相手を愛し、敬うものだからだ。憧れは認識不充分の一産物なのである。

太陽も潮風も少年の肌をやきはしなかった。肌は最初の頃と変わらず大理石の黄色味を帯びたままだった。しかしその晩は、涼しすぎたせいか、街灯の月光に似た青白い光のせいか、いつもよろ蒼ざめて見えた。平らな眉毛はいつもよりくっきりとして、目にはいつもより深々とした色があった。なんともいいようのない美しさだった。言語は感性的な美をほめ讃えることのみなしえて、よくこれを写しえないということをアシェンバハは今また身にしみて感ずるのであった。

この微笑を享けた男は、禍多き贈物をでも受け取ったように、倉皇としてそこを立ち去った。彼はテラスと前庭の灯とを避けずにはいられなかったほどに、また慌てふためいた歩き方でホテルのうしろの公園の闇を求めたほどに、ひどいショックを受けたのだ。奇妙にに腹立たしい、しかし愛のこもった忠告の言葉が口を衝いて出た、「お前はそんなふうに藁ってはならないのだ。いいかね、誰にだってそんなふうにほほえみかけてはならないのだよ」彼はベンチに身を投げかけた。気もそぞろに、植物が放つ夜の香気を胸に吸い入れた。腕をだらりと下げて、上体をのけぞらせ、たたきのめされ、幾度も戦慄に襲われつつ、彼は憧憬のきまり文句を囁いた。――こんな場合とうてい考えられぬような、つじつまの合わぬ、唾棄すべき、滑稽で、しかも神聖な、とはいえこんな場合にもやはり荘重なきまり文句、「己はお前を愛するのだ」を。

自分だって勤務したのだ、自分だって兵士であったのだ、軍人であったのだ、祖先の多くの人たちと同じように。――なぜなら芸術とは一個の戦争であった、今日では人が永くは堪えることをしかねる、身も心もすりへらす苦闘であったのだから。自己克服と「それにもかかわらず」の、苦しい、毅然たる、禁欲的な、彼が繊細で時代的な英雄主義の象徴として刻み上げた生活――おそらく彼はこの生活を男らしいと呼び、雄々しいと見て一向に差し支えはなかったのだ。そして彼は、自分を虜にしてしまったエロスの神が、こういう生活にはことのほかにぴったりとしていて、好意を寄せていてくれるような気さえした。エロスの神は、最も勇敢な諸民族のあいだですらも非常に尊信せられていたではないか。エロスの神は勇敢さによってそれらの都市で勢力をうるにいたったといわれているではないか。大昔のたくさんの勇士たちは、よろこんでエロスの神の課する桎梏を担ったのだ。なぜならこの神が下す屈辱はじつは屈辱を意味しなかったからであり、また、ほかの目的のために行われたのであれば、卑怯の証拠として非難せられたかもしれぬ行為の数々、つまり平伏、誓言、切なる願い、奴隷的な仕草など、そういったものも、恋をする者には恥辱とならず、むしろそういうことをすれば逆に人の賞賛をさえ得られるのである。