ジャン・ジャック・ルソー『孤独な散歩者の夢想』

要するに、僕は地上でただ一人きりになってしまった。もはや、兄弟もなければ隣人もなく、友人もなければ社会もなく、ただ自分一個があるのみだ。およそ人間のうちで最も社交的であり、最も人なつこい男が、全員一致で仲間はずれにされたのである。どういう苦しめ方が僕の敏感な魂に最も残酷であるかと、彼らはその憎悪の極をつくして考えめぐらしたのだ。そのあげくが、僕と彼らを結ぶ羈絆をことごとく理不尽にも絶ち切ったのである。そのような仕打ちを受けても、僕は彼ら人間を愛したつもりだった。彼らが人間であるかぎり、僕の愛情からはのがれえないはずだったのである。ところが今となっては、僕にとって彼らは、赤の他人に、それこそ縁なき衆生になってしまったのである。彼らのほうでそれを望んだからしかたないのだ。彼らはそれでいいとしても、彼らから、一切のものから離脱した僕というものは、一体、どういうことになるのか?このことは、とくと考えてみなければならん。それを考える前に、つらいことだが、僕はどうしても自分の境涯を瞥見する必要がある。これは僕が彼らから自分に到達するためには、いやおうなしに通らねばならぬ道だからである。

僕にとって外的なものは、今後はいっさいよそごとである。もはや、僕にはこの世に、隣人もなければ、仲間もなく、兄弟もない。僕はこの地球の上にいても、知らない遊星の上にでもいるようなものだ。今まで住んでいた星から、この星へ落ちてきたものらしい。たまに僕が自分の周囲に何物かを認めたとすれば、それは、僕の心にとって、苦しい、せつない対象物にほかならぬのだ。そして、自分に触れているものや、自分を囲んでいるものに眼を投げるたびごとに、いつもそこに見いだすのは、腹のたつような侮蔑や、耐えがたい苦痛の種ならざるはないのだ。だから、それら一切の厄介な対象物を、僕の精神から一掃するとしよう。そんなのものにいつまでかかずらっていたところで、心を痛めつけられるばかりで、何の益にもなるまい。もとより僕は、自分のうちにのみ、慰藉と希望と平和を見いだす者であってみれば、余生はただ一人で、自分にのみ専念すべきだし、またそれのみを願っている。このような心境において、僕はかつて自分の『告白録』と呼んだところの、あの厳粛で真摯な検討の続編に手をつけようとしているのである。僕はおのれの余生を供して、自分で自身を研究することにしよう。そして、遠い先ではないと思うが、いずれは自分についてなすはずの報告を、今のうちから準備しておくことにしよう。自分の魂と語りあうことの甘味を、心ゆくまで味わことにしよう。魂だけは彼ら人間が僕から剥奪することのできぬ唯一のものだからだ。僕が自分の心の配備を深く反省することに努めて、もしそれをよりよき秩序におき、そこに残っている悪を矯正することができれば、僕の黙想は必ずしも無益ではあるまい。そして、たとえ僕がもはやこの世で何の役にもたたないとしても、僕は自分の余生を完全にむだづかいしたとは思わない。

僕はこの原稿を隠しもしなければ、べつに誇示もしない。よし人々が、僕の生存中、それを奪い取ったとしても、それを書いた楽しみを、その内容の思い出を、孤独の瞑想を奪うことはできぬだろう。実にこの原稿こそ、その瞑想の果実であり、またその泉は、僕の心と一緒にしか涸れることはあるまい。僕の最初の災厄が訪れたそのとき、もし僕が自分の運命に反抗しなくてもいいことを知っていたら、そして、今日しているようなあきらめをあのときしたとしたら、彼ら人間のあらゆる努力、あの恐るべきあらゆる奸策も、僕に何らの効果を与ええなかったであろうに。そして、その後の彼らがうまうまとなしえたようには、彼らのことごとくの陰謀をつくしても、僕の静安をみだすわけにはゆかなかったろうに。彼らが僕の汚名を興ずるのは勝手だが、それにしても、僕が自分の清浄潔白を楽しむのを、そして、お気の毒ながら、僕が安らかに生涯を終えるのを、彼らといえども妨げることはできない。

もとより苦難が偉大な教師であるおとはいうまでもない。しかし、この教師たるや授業料がはなはだ高価で、それから得る利益が、支払った代価ほどでないことが多いのだ。そのうえ、かくのごとき晩学では、学んだ知識をことごとくわがものとする前に、それを適用すべき時機が過ぎ去ってしまう。青春時代は叡知を学ぶべきときである。老年時代はそれを実行すべきときである。経験はつねに教えるものであることは、僕もこれを認める。しかし、経験というのは、自分の前方にひらけている時空のためにしか役だたないものである。
死なねばならぬ間際になって、生くべき方法を学ぶ時間などあるだろうか?

老人の勉強というのは、もしまだ老人になすべき勉強があるとすれば、それは死ぬことを学ぶことだけである。ところで、僕の年齢の人たちが、僕も等閑に付しているのは、実にこの勉強なのだ。人々は、この年齢になると、あらゆることを考えるが、このことだけは除外している。どんな老人も、子供以上に生命に執着している。そして、青年以上にいやいやながら生命を終えるのである。それというのも、彼らがなしたあらゆる仕事は、皆なこの生命のためであってみれば、彼らの労力のむだであったことを、人生の終わりに際し初めて知るからであろう。彼らの一切の骨折り、一切の財産、勤勉な夜業から得た一切の成果、これとて全部、彼らはこの世を去るときには棄てていかなかければならないのだ。生きている間、彼らは、死んでも持ってゆけるものを獲得しようなどとは考えてもいなかったのである。

僕は自分の清浄潔白に安心しきって、人々の僕に対する尊敬と好意しか想像していなかったのに、僕は胸襟を開いて、友人や兄弟と心情を吐露していたつもりでいたのに、裏切り者は、地獄の底できたえた罠を、こっそり、僕に仕組んでいたのである。あらゆる厄災のうちで最も不意打ちの、そして高潔な人にとっては最も恐ろしいのに見舞われ、誰によってだか、なぜだか知る由なく、泥濘に引きずりこまれ、屈辱の深淵の中に沈められ、ただあちこちに忌まわしい物しか見えぬ恐ろしい暗黒に閉じこめられてきた僕は、最初の奇襲で打ちのめされてしまったのである。そしてもし僕が、倒れてもまた起き上がるだけの勇気を前もって蓄えておかなかったなら、この種の思いがけぬ厄災が、僕を投げこんだその意気消沈から、ふたたび立ち直ることは永久になかったろうと思われる。

真であることを言わないのと、偽であることを言うのとは、非常に相違した二つのことであるのだが、それでいて、それから同一の結果が生じうるのである。なぜなら、その効果が無である場合は、つねにその結果は確実に同一だからである。真実であることがどうでもいいようなときは、その反対の誤謬もまたどうでもいいのである。したがって、真実の反対を言うことによって欺く者とて、真実を述べないことによって欺く者同様に不正ではない、ということになる。なぜなら、無用の真実に関する限り、誤謬は無知より悪いとは言えないからである。海の底にある砂を、僕が白と信じようが、赤と信じようが、そんなことは、その実際の色を知らないのと同様、僕には重要なことではないのである。不正とは、他人に与える損害の中にのみ成り立つものである以上、誰をも害わない不正が成り立つものであろうか?

現にこのような、倫理上の難問題にぶっつかると、いつもながら僕は、理性の光に拠るよりは、むしろ良心の啓示で解決することにしている。かつて道徳的本能が僕を誤らせたためしは一度たりとなかった。実にこの本能は、これまで僕の心の中にその純粋性を守りとおしてきたので、僕は安心してそれに信頼することができるのである。そして、僕の行為中における情熱の手前、ときにそれは黙することはあっても、僕の追憶の中にあっては、情熱を抑える力を取りもどすのである。この追憶の中においてこそ、僕は自分自身を裁くのだ。死後、僕が神によって裁かれるだろうときの、おそらくはそれに匹敵するきびしさをもって。

人々の言談を、それが生んだ結果によって批判することは、それを見誤る場合が往々にしてある。そもそもこの結果は、必ずしも敏感なものでも、わかりやすいものでもないうえに、その言談が行われた場合と同様に、際限も無く変化するものである。しかもそれは、その結果を云々し、鑑定し、その悪意好意の度合を決定する者の意志ひとつである。偽りを言うことは、騙す意志があって初めて嘘をつくことになる。そして、騙そうとする意志でさえ、害する意志などと結合していなければ、ときには正反対の目的をもつことがある。しかし、害する意志が明白でないというだけでは、虚言が無罪にはならない。それには、自分が話相手を誤謬の中に投げこんでも、その誤謬が、どんなにしても、その話相手を、あるいは誰をも害しえないという確実性が必要なのだ。この確実性を有することは、稀有で、困難だ。だから、虚言が完全に無罪であるということは、困難で、稀有なことになる。自分自身の利益のために嘘をつくのは、詐欺である。他人の利益のために嘘をつくのは、欺瞞である。害すせんがために嘘をつくのは、誹謗である。これは虚言の極悪の種類だ。自分および他人の得にも損にもならずに、嘘をつくのは、嘘をつくのではない。これは虚言ではなくて、虚構である。

石を投げつけられて、モティエから追い出され、僕が逃げこんだのが、この島だったのである。僕はこの地に滞在することを非常に楽しく思ったし、また、自分の気分にしっくり合った生活を送っていたので、ここを終焉の地に決めたものの、ただ、それにはたった一つの気がかりがあった。というのは、僕をイギリスに誘いこもうという計画とはガッチしない計画、僕が早くもその最初の効能を感じはじめたその計画を、はたして人々が僕に許し、実行させておくかどうかということだ。僕を不安にしたこのような予感の中にあっても、せめて人々が、この逃げ場を、僕の永久の牢獄にしてくれるよう、一生、人々が僕をここに閉じ込めるよう、僕からあらゆる権利を奪い、ここから出る希望をも絶って、人々が僕に大陸とのあらゆる種類の交通を禁じてくれるよう、そうすることによって、世界のことごとくの事情を知らなくなった僕が、世界の存在を忘れてしまうよう、人々もまた、僕自身の存在を忘れてしまうよう、僕はひたすらにそれのみを念じたほどだ。

僕の義務と心情がかち合う場合は、前者が勝利を得るようなことはめったになく、行動せずにいるのがせいぜいだった。だから僕は、たいがいの場合は強かったのである。それにしても、自分の性向に反して行動することは、僕にはつねに不可能だったのである。命令するのが、人間であろうが、義務であろうが、必然であろうが、僕の心情が黙しているかぎり、、僕の意思は聾である。だから、僕は命令に従いようもないのである。僕は悪が僕を襲おうとしているのを見る。僕はそれを防ごうと、いたずらに動揺するよりは、いっそ自由に来させるのである。初めのうちこそ努力してもやるが、この努力は、すぐに僕を疲らせ、ぐだぐだにさせてしまう。あとを続けることなどできぬのだ。およそ考えられうるあらゆることにおいて、僕が心たのしくなさないことは、何にかぎらず、ほどなく僕にはなすことができなくなるのである。
それのみではない。たまたま強制が僕の欲求と合致した場合、その強制が、強く働きすぎると、ただそれだけで、僕の欲求を全滅し、それをして、嫌悪に、怨恨にさえ変えてしまうのである。そして、このためにこそ、人が要求する善業、そして、人が要求しないときには、自分から行っていた善業が、僕には苦しいものになるのである。純粋に無償の慈善は、もとより、僕の好む仕事である。しかしながら、慈善を受けた者が、怨恨でおどしながら、その継続を要求するための何らかの名目をこさえるとき、初めそれが楽しかったからとて、僕を永久に、彼の慈善家にしようとする掟をつくるとき、もうそのときから窮屈がはじまって、楽しさは消えてしまう。そのとき、僕が負けて、何かするとすれば、それは弱さであり、気恥ずかしさであって、もはや、そこには慈善はないのである。そして、僕はそれをみずからに誇るどころか、いやいやながら善を行うのを自分の良心に咎めるのである。

彼らがいまさらじたばたしたってだめなのだ。僕のこの嫌忌は、怨恨などというものではありえないのだから。彼らは僕を従属させておこうとして、かえって、僕に従属していることを思うと、心からお気の毒になる。もし僕が不幸だとすれば、彼ら自身もそうである。僕は自分にたち返るごとに、いつも彼らを哀れに思う。おそらくこの批判には今もって矜持が混じているかもしれない。僕は彼らを憎むべく、自身があまりにも彼らを超越しているような気がするのだ。せいぜい、彼らは僕に軽蔑心をいだかせるくらいのことはあろうが、憎しみなどとはもってのほかだ。要するに僕は、自分で自分をあまりにも愛しているため、誰であろうと、他の人を憎むことなどできないのだ。そんなことをすれば、自分の存在を圧縮することになる。ないしろ僕は、それを全宇宙にのびのびと拡げたいと念じているのだから。

僕は自分が自由に行動するかぎりにおいて、善人であり、善いことしかできない人間である。それだのに、僕は束縛を感ずるやいなや、それが必然性の束縛であれ、人間の束縛であれ、僕は反抗的になる。というよりは、ひねくれてしまう。いったんそうなれば、もう僕は零の存在でしかない。僕は自分の意志の反対をしなければならないときは、どんなことになろうと、それをなさないのである。僕は自分の意志をさえなさないのである。なぜなら、僕は弱いから。僕は行動を差し控える。つまり、僕のあらゆる弱さは、行動のためであり、僕のあらゆるiからは消極的であり、僕のあらゆる罪は、不行為からきていて、行為によることはめったにないからである。人間の自由は、自分の欲することをなすことにあるなどと、僕は一度も思ったことはない。ただ、自分の欲しないことをなさないことにあると思っている。

僕は自分の気随気ままにやってゆこうとした決心を弁解しようとは思わない。僕はこの出来心をすこぶる理屈に合ったことだと思っているのである。それというのも、僕のような境涯では、自分の楽しい道楽にふけることは、きわめて賢明であり、立派な美徳でさえあると信ずるようになったからで。要するにそれは、僕の心中に、復讐や憎悪の酵母を発生させない方便であるのだ。それのみならず、僕のような運命において、何かの道楽ごとに趣味を見いだすなどとは、すべて怒りやすい激情を払拭した天性をもっている証拠である。これは僕の迫害者らに僕らしく復讐することになる。僕には、彼らの意に反して幸福になるという以外に、より彼らを残酷に罰しようはないのだ。

われわれが起る厄災において、われわれはその結果よりもその意志のほうを重要視する。屋根から落ちてくる瓦のほうが一層われわれを傷つけもしようが、しかし、悪意ある手から故意に投げられた石ほどにはわれわれの心を痛めさせない。石ははずれることもままあろうが、意志は必ずその打撃を与える。運命の与える打撃のなかで、肉体的苦痛は、人が最も少なく感ずるところのものである。そして、不遇な人たちは、おのれの不孝の責任を誰に嫁していいかわからないときは、運命のせいにする。わざと運命に目や知恵を貸して、それを人間化したうえで、その運命が自分たちを苦しめているのだとする。

ええ!なんだと?さて、さて!僕の理性だと?理性にこの勝利の名誉を与えるのは、またしても、大きな過誤であるかもしれない。なぜなら、理性はこの勝利に何ら与っていないから。すべてやっぱり、激しい風が吹けば激動するが、風がなりやめばたちまち静寂にかえるという変わりやすい性分からきているのだ。僕を激動させるのは僕の熱烈な天性である。僕を鎮めるのは僕の呑気な天性である。

かつて僕があらゆる眼のなかに好意しか見なかった時分、少なくとも、僕を知らない人の眼のなかには無関心しか見なかった時分は、人なかにいても僕は楽しく暮らせたものだった。それが今日では、人はなるべく僕の天性は世間一般に隠すようにし、そして僕の顔はなるべく示すように骨折っているので、僕は街路に足を踏み出すごとに、見るもの聞くもの一つとして胸をさされないものはない。僕は一刻も早く野っ原に出ようと大股で歩く。青いものが見えだすと、ほっと息をつく。僕が孤独を愛したとて怪しむに足るまい。僕は彼ら人間の顔の上に憎悪しか見ないのだ。それだのに自然はいつも笑ってくれる。

宿を貸して金を取るのは、ひとりヨーロッパだけだということに僕は気づいた。アジアではどこでも無料で泊めてくれる。もとよりそこにしたところで、自分の思うままの安楽が得られないことはわかりきっている。それんしいても、自分に向かってこう言いうるということは大したことではないか?「僕は一人の人間である。そして、人間仲間の家に招かれたのである。僕に宿を貸すのは純然たるユマニテなんだ」と。心が肉体以上に優遇されれば、多少の不自由はわけなく我慢できるものである。