三島由紀夫『美徳のよろめき』

いきなり慎みのない話題からはじめることはどうかと思われるが、倉腰夫人はまだ二十八歳でありながら、まことに官能の天賦にめぐまれていた。非常に躾のきびしい、門地の高い家に育って、節子は探究心や理論や洒脱な会話や文学や、そういう官能の代わりになるものと一切無縁であったので、ゆくゆくはただ素直にきまじめに、官能の海に漂うように宿命づけられていた、と云ったほうがよい。こういう婦人に愛された男こそ仕合わせである。
節子の実家の藤井家の人たちは、ウィットを持たない上品な一族であった。多忙な家長が留守がちで、女たちが優勢な一家では、笑い声はしじゅうさざめいているけれども、ウィットはますます稀薄になる傾きがある。とりわけ上品な家庭であればそうである。節子は子供のころから、偽善というものに馴らされて、それが悪いものであるとは夢にも思わぬようになっていたが、これは別段彼女の罪ではない。

現代においては、何の野心も持たぬというだけで、すでに優雅と呼んでもよかろうから、節子は優雅であった。女にとって優雅であることは、立派に美の代用をなすものである。なぜなら男が憧れるのは、裏長屋の美女よりも、それほど美しくなくても、優雅な女のほうであるから。

あの青年の接吻が、只一度であり、ほんの一瞬であり、しかも拙劣であったことが、節子の記憶の裡にかえってその重要性を高めたのである。節子は何か退屈な折に、良人から教わった多岐な接吻を、ひとつひとつ土屋の上に応用してみる空想にとらわれ、そのたびぞっとして身を退いた。これは決して恋ではなかった。あのときの私が今の私だったら、もっといろいろと教えてあげることもできたろうに、と節子は、忠実な生徒が、時たま教師になり変わる空想をはぐくんでいたにすぎない。
節子は堅固な道徳観念を持っていたが、空想上の事柄については寛容であったというほかはない。この躾のよい女の羞恥心は、そもそも躾としてしか働かなかったので、どんな夢を見ても、恥ずかしい気持ちにはならなかった。自分ひとりで見る夢を、誰に見られる心配があろう!

こんな状態が、ある小さな事件で不意に崩れた。良人と一緒に行った舞踏会で、一曲節子と踊った土屋が、一寸話があるから、明日の午後三時に、節子の家のちかくの駅のプラットフォームで待っている、と告げた。あくる日の午後三時、節子は約束の場所へ行かなかった。そして土屋が節子の家まで押しかけてくる勇気があるかどうかを試そうとして、家で永いこと待っていた。土屋は来ない。節子は土屋を蔑んだ。そうして終日怒っているうちに、節子は自分が土屋に恋しているのを知った。

節子の月経は毎月遅れ気味で、大そう長くつづいた。そのあいだには得体の知れぬ悲しみが来る。その期間はいわば真紅の喪である。

「ちゃんと着物を着て御飯を喰べるのって不味いな。僕は真裸で喰べるのが好きなんだ」
「一人で?」
「君って子供なんだね」
と土屋は偉そうに言った。

この一言はかなりあとまで節子に影響を与えた。そんな情景は今までの彼女には想像も及ばぬ奇観であった。食事のたびごとに、良人との朝食の折にも、彼女はそれを思い出した。それはおそらく土屋が、他の放恣な友人からきいた受け売りを、自分の体験のように吹聴しているにすぎないと思われた。嫉妬を感じたのではない。その話に性的に惹かれたというのでもない。ただ節子の躾が、無邪気に讃嘆の叫びをあげていた。何というすばらしいお行儀のわるさ!

節子は自分の身分というものには、十分矜持を持っていたが、自分の感情や思考については、誇大に考える傾きを持たず、それが節子の美質であった。今、自分の陥っている空虚、時には苦悩と名附けてもよいものに対しては、こうした恬淡さから、あんまり分析の必要を認めていなかった。彼女は心のどこかで、自分を人とちがうと思わせる苦悩の、凡庸な性格に気づいていた。それは心を刺す点において、時には剣呑であったが、云ってみれば、酸素の稀薄になった場所で人が苦しむような、彼女の存在感の稀薄が惹き起こす苦悩であった。

男女の附合が次第に或る帰着を求めて息苦しくなる、その息苦しさをまるきり感じないように見える土屋の、自由でのびやかな息づかいが、節子には憎らしくなった。彼だけが自分と別の空気を吸っているように思われた。節子の吸う空気にはすでに酸素が足りない。
節子は会っているあいだに何かの加減で急に鼓動の高なりを感じると、思わずかたわらの土屋を見る。彼は平静な横顔を見せている。すると、節子にはこんな鼓動が、その場の空気とは何のかかわりもない、自分の内部の病気にすぎないように思われてくる。
「あなたとお会いしていると、私、このごろとても疲れるようになった」
と節子は、そこで、病人の訴え方をした。
「きっと春のせいだよ」
土屋はそう言った。

これだけ苦しんだのだから、どんな歓びも享ける資格があるような気がした。何を望んでいるのかはわからなかった。ただこれだけの犠牲を払って彼女が望むものは、決して罪にはならぬだろうと思われた。

……喜びは大そう過ぎやすい。あくる日すでに節子は不幸になった。
前にも云ったとおり、節子のしようとしていたのは空想的な恋愛である。節子のいわゆる道徳的な恋愛である。
節子のあまり深くものを分析しない思考の中では、彼女が今まで永いこと大切にして来た婦徳は、その実かなり曖昧な定義をつけられていた。空想の領域はまだ美徳に属し、現実は悖徳に属していた。こんな考え方の結果として、表てにあらわれた行為については、もっと峻厳である筈の節子だった。そのためにこそ、空想の内では、彼女は大いに寛大であろうとして来たのである。
どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属している、と節子は考えていた。そこで、現実の行為は、どんなにやさしく、愛らしい、無邪気な形をとっていても、悖徳の世界に属していた。

その晩の節子は実際火のように清浄で、彼女自身、ほとんど肉感的な印象をとどめていなかった。これまで土屋からうけとっていた多くの官能の断片は、土屋の髪の匂い、唇、肌ざわり、……そういうものの悉くは、まるで節子にとって重要でなくなっていた。この青年に身を委したという自分の精神的姿勢だけで満ち足りていたのである。節子はこのとき、何に似ていると云って、一等、聖女に似ていただろう。

こんな小説的な想像力が、おっとりした節子に生れたのは、うそが彼女を陶冶したのだと考えるほかはなかった。今まで節子の恋の空想は単純なものであった。しかしひとたびその空想が現実になると、彼女の世界の認識は変わり、まるで世界の各家庭が隠れた地下道でつながっているような気がしてきた。もし与志子が良人と愛し合っているのだとしたら、今より更に深い友情を、与志子に感じるだろうと思われた。節子は思うのであった。美徳はあれほど人を孤独にするのに、不道徳は人を同胞のように仲良くさせると。

旅行に行って数日後に月経を見たとき、節子の幸福感は絶頂に達した。これこそすべてが恕され、すべてが嘉納されたしるしであった。

節子は女らしい目でしか恋人を見なかったから、そこに何も発見しない。もし知的な女が土屋を見たならば、こうした彼の因れのない感情の無力感に、正に時代の児の特徴を読み取ったかもしれないのである。

与志子は女にはめずらしい美徳を持っていた。聴手になることのできるという美徳を。

われわれが未来を怖れるのは、概して過去の堆積に照らして怖れるのである。恋が本当に自由になるのは、たとえ一瞬でも思い出の絆から脱したときだということを節子は学んだ。くりかえしを恐れる気持ちを、われわれは粗雑にただ、堕落を怖れる気持ちだなどと呼んでいる。節子が怖れているのは、もう堕落などではなかった。

「その土屋という人は、今はおそらくあなたを愛していないが、この世で一等強力なのは愛さない人間だね。そういうものには手の施しようがないし、しかもあなたはその男から、愛のおしるしだけは確実にうけとっている。男はもう、あなたの上に自分の力を揮い、その力の影響をためすことだけにしか興味がないのだ。それなら肉体の仕業はみんな嘘だと思ってしまえば簡単だが、それが習慣になってしまえば、習慣というものには嘘も本当もない。精神を凌駕することのできるのは習慣という怪物だけなのだ。あなたも男も、この怪物の餌食なんだよ。もっとも人生においてそれはそんなに恥ずべきことじゃない。あなたは必ずしも敗北者ではなく、男は必ずしも勝利者じゃない」

「習慣のおのおのの瞬間を、一回きりのものにすること、……ああ、倉越さん、私はことさらあなたに難題を吹きかけているのじゃない。ただ、この世界がいつまでもつづき、今日には明日が、明日には明後日が永遠につづき、晴れたあとには雨が来、雨のあとには太陽が照りかがやくという、自然の物理的法則からすっかり身を背けることが大切なのだ。自然の法則になまじ目移りして、人間は人間であることを忘れ、習慣の奴隷になるか逃避の王者になるかしてしまう。自然はくりかえしている。一回きりというのは、人間の唯一の特権なのだ。そうは思わないかね、倉越さん。
私の道徳は、あなたに家庭にかえれなどとすすめてはおらん。私の言うとおりにすればむしろあなたは土屋というその人の体に、積極的に快楽を見出すだろう。快楽はたしかにすばらしいものだ。思う存分に呼吸しつくし、味わいつくすべきものだ。そういう快楽を知っているとあなたはお言いだろうが、明日を怖れている快楽などは、贋物でもあり、恥ずべきものではないだろうか。
もしあなたが積極的に快楽を見出せば、その次には、あなたはそれを捨てるか持ちつづけるかの自由をわがものにすることができる。習慣からのがれようとする思案は、陰惨で、人を卑屈にするばかりだが、快楽を捨てようとする意志は、人の矜りに媚び、自尊心に受け容れられやすい。そうだろう、倉越さん。
だから私はあなたに道徳を、道徳という言葉が悪ければ、もっと自分を追いつめたところに生れる力を使うようにおすすめする。私の言いたいことはこれだけだ」

「奥様、よくしたもので、女が一等惚れるの羽目になるのは、自分に一等苦手な男相手であございますね。あなたばかりではありません。誰もそうしたものです。そのおかげで私たちは自分の欠点、自分という人間の足りないところを、よくよく知るようになるのでございます。女は女の鑑にはなれません。いつも殿方が女の鑑になってくれるのですね。それもつれない殿方が。
けれども、奥様、情に負けるということが、結局女の最後の武器、もっとも手強い武器になります。情に逆らってはなりません。ことさら理を立てようとしてはなりません。情に負け、情に溺れて、もう死ぬほかないと思うときに、はじめて女には本来の知恵が湧いてまいります。火事や地震の場合に、男がどんなにみっともなくうろうろし、女がたのもしく冷静になるかは、誰もよく知っております」

苦悩などという言葉を、もう信じないようにしなくてはならない。きのうまで、それは生活にとって必須の言葉であった。今日はもう要らない。進んでそれを屑籠に投げ込んで、整理すべきものは整理しなければならない。とすると、今のこの心の空虚を、何と名附けるべきかに節子は迷った。これは苦悩でもない。痛みでもない。悲しみでもない。まして歓喜でもない。苦悩の燠のようなものかと思ってみるが、それでもない。苦悩は確実に過ぎ去ったのだ。しかし感情はなお確実に、時計の針のように、わき目もふらずに動いている。それはあらゆる意味を失った純粋な感情で、裸かで、鋭敏で、傷つきやすく、わなないて、……ただ徒に正確に動いているのである。