ヘルマン・ヘッセ『クヌルプ』

彼には前科というものはほとんどなかった。盗みや物ごいをしたという証拠はなく、それにりっぱな友達をいたるところに持っていた。それで、人はきれいなネコを所帯の一員として暮らさせてでもおくように、彼をまかり通らせた。ネコは、みんなせっせとあくせくと暮らしている人間たちのあいだで、のんきに、心配の無い優雅な、はなやかに紳士気取りの、無為徒食の生活を送っているのだが、だれも大目に見のがしているのである。

「だが、ね、仕立て屋さん、きみは聖書に注文をつけすぎるよ。何が真実であるか、いったい人生ってものはどういうふうにできているか。そういうことはめいめい自分で考え出すほかはないんだ。本から学ぶことはできない。これがぼくの意見だ。聖書は古い。昔の人は、今日の人がよく知っていることをいろいろとまだ知らなかったのだ。だが、だからこそ聖書には美しいことりっぱなことがたくさん書いてある。ほんとのことだってじつにたくさんある。ところどころはまるで美しい絵本のように思えたよ」

彼は自分の札を優美にテーブルの上に投げ、ときどき親指をトランプのふちに走らせた。親方は感嘆と寛容とをもって、働く市民はかせぎにならないわざをどんない喜ぶものかと、わきからながめた。だが、細君は、世慣れた人らしい生活術のこのあらわれを、心得た人の関心をもって見まもっていた。彼女のまなざしは、はげしい仕事でそこなわれていない長い柔らかいクヌルプの手に注意深く注がれていた。

「百姓は物惜しみをする。そりゃよくわかっている。だが、土の下じゃ楽に暮らしたいんだ。だから骨身を惜しまず、墓とそのそばにはきれいなものを植えるんだ」

「まったくそのとおりだよ、クヌルプ。なんでもふさわしいときに見ると、美しいんだ」
「そうだ。だが、ぼくはまた別な考え方もする。いちばん美しいものはいつも、満足とともに悲しみを、あるいは不安を伴うとき、美しいのだ、と考える」
「ええ、どうして?」
「こう思うんだよ。ほんとに美しいお嬢さんだって、たぶんそんなに美しいとは思われないだろう。そんなひとにも盛りのときがあり、それが過ぎれば、年をとって死ななければならない、ということがわかっていなかったら、何か美しいものが未来永久にわたってたえず変わらず美しかったとしたら、それはぼくを喜ばすかもしれないが、ぼくはそれを冷たい目で見、こんなものはいつだって見られる、何もきょうでなくてもいい、と考えるだろう。これにひきかえ、衰えやすいもの、いつまでも同じではいないものを見ると、喜びばかりでなく、同情をもいだくのだ」

「『ヘンリエッテ!』とぼくは呼びかけ、帽子をとった。ぼくをおぼえていると言ってくれるかどうかわからないほど、彼女は美しく見えたからだ。
彼女はぐるりと向きなおって、ぼくの目をのぞきこんだ。だが、そうやって目を見られると、僕は驚き恥じずにはいられなかった。彼女はぼくがそうだと思って話しかけたひとではなく、二ばんめの恋人で長いあいだつきあっていたリーザベートだったからだ。
『リーザベート!』とぼくはそこで叫び、手を差しのべた。
彼女はぼくを見つめた。それはぼくの心を貫いた。神さまに見られでもしたように。きびすくはなく、高ぶってもおらず、静かに澄んでいたが、非常に精神的ですぐれいたので、ぼくは自分が犬のように思われた。彼女はじっと見ているうちに真剣に悲しくなり、やがて厚かましい問いにでも答えるように頭を振り、ぼくの手を取らず、家の中に引き返し、戸を静かにうしろ手にしめた。錠がぱちんとかかるのが聞こえた」

「人間はめいめい自分の魂を持っている。それをほかの魂とまぜることはできない。ふたりの人間は寄りあい、互いに話し合い、寄り添いあっていることはできる。しかし、彼らの魂は花のようにそれぞれその場所に根をおろしている。どの魂もほかの魂のところに行くことはできない。行くのには根から離れなければならない。それこそできない相談だ。花は互いにいっしょになりたいから、においと種を送り出す。しかし、種がしかるべき所に行くようにするために、花は何もすることができない。それは風のすることだ。風は好きなように、好きなところに、こちらに吹き、あちらに吹きする」

「ぼくは両親の子で、両親に似ている、と両親は考える。だが、ぼくは両親を愛さずにはいられないとしても、両親にとっては理解できないような未知の人間なのだ。ぼくにとっては肝心なもの、おそらくぼくの魂であるものを、両親は枝葉のものと考え、ぼくの若さあるいはむら気のせいにする。それでもぼくをかわいがり、あらゆる愛情をつくしてくれるだろう。父親は子どもに鼻や目や知力をさえ遺伝としてわかつことができるが、魂はそうではない。魂はすべての人間の中に新しくできたものだ」

「さあ、もう満足するがいい」と神さまはさとした。「嘆いたとて何の役にたとう?何ごとも良く正しく運ばれたことが、何ごとも別なようであってはならなかったことが、ほんとにわからないのかい?ほんとにおまえはいまさら紳士や職人の親方になり、妻子を持ち、夕方には週刊でも読む身になりたいのかい?そんな身になったって、おまえはすぐまた逃げ出して、森の中でキツネのそばに眠ったり、鳥のわなをかけたり、トカゲをならしたりするのじゃないだろうか」
またクヌルプは歩きはじめた。神さまのおっしゃることのすべてにありがたくうなずいた。
「いいかい」と神さまは言った。「わたしが必要としたのは、あるがままのおまえにほかならないのだ。わたしの名においてさえおまえはさすらった。そして定住している人々のもとに、少しばかり自由へのせつないあこがれを繰り返し持ちこまねばならなかった。わたしの名においておまえは愚かなまねをし、ひとに笑われた。だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。おまえはほんとにわたしの子ども、わたしの兄弟、わたしの一片なのだ。わたしがおまえといっしょに体験しなかったようなものは何ひとつ、おまえは味わいもしなければ、苦しみもしなかったのだ」

クヌルプがもう一度目を開いたとき、太陽が照っていて、ひどくまぶしかったので、彼はあわててまぶたをさげずにはいられなかった。雪が重く両手に積もっているのを感じて、ふるい落とそうと思ったが、眠ろうとする意志が心の中のほかのどんな意志よりももう強くなっていた。