夏目漱石『明暗』

彼女は心の中で継子に言った。
「あなたは私より純潔です。私がうらやましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、なんの役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落ちなく仕向けてすら夫は、決してこっちの思うとおりに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛をつなぐために、その貴い純潔な生地を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽くしてすら、夫はことによるとあなたに辛くあたるかもしれません。私はあなたがうらやましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままの器が完全に備わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと言えば、言われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母の膝下を離れるとともに、すぐ天真の姿を傷つけられます。あなたは私よりもかわいそうです」

夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合のいいもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の良人に対する親切に違いなかった。あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違いなかった。けれども継子にはまだそれ以上に、人間としてまた細君としてだいじな稽古がいくらでも残っていた。お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女を善くするものではなかった。しかし女を鋭敏にするものであった。悪く摩擦するには相違なかった。しかし怜悧にとぎ澄ますものであった。

「そりゃお前と継とは……」
中途でやめた叔母は何をいう気かわからなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にもとれる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気のつかなかったある物に、突然ぶつかったような動悸がしたからである。
「きのうの見合いに引き出されたのは、容貌の劣者として暗に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」
お延の頭に石火のようなこの暗示がひらめいた時、彼女の意志も平常より倍以上の力をもって彼女に迫った。彼女はついに自分をおさえ付けた。どんな色をも顔に現さなかたt。
「継子さんは得なかたね。だれにでも好かれるんだから」
「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好き好きだからね。あんなばかでも……」

みくじになんの執着もなかったお延は、突然こうして継子と戯れたくなった。それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女に思い起こさせるいい媒介であった。弱いものの虚をつくために用いられる腕の力が、彼女を男らしく活発にした。おさえられた手をはね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。ただみくじを継子の机の上から奪い取りたかった。もしくはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。二人は争った。同時に女性の本能から来るわざとらしい声をはばかりなく出して、遊戯的な戦いに興を添えた。二人はついに硯箱の前に飾ってあるだいじな一輪ざしを引っ繰り返した。紫檀の台からころころと転がり出したその花瓶は、中にある水を所きらわず打ちあけながら畳の上に落ちた。二人はようやく手を引いた。そうして自然の位置から不意にほうり出されたかわいらしい花瓶を、同じように黙ってながめた。それから改めて顔を見合わせるや否や、急に抵抗する事のできない衝動を受けた人のように、一度に笑いだした。

男が女を得て成仏するとおりに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実をわれわれの目の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏しにくくなる。今までの牽引力がたちまち反発性に変化する。そうして、昔から言い習わして来たとおり、男はやっぱり男どうし、女はどうしても女どうしという諺を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実をあげるのは、やがてきたるべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……

彼女は手紙を巻いた。そうして心の中でそれを受け取る父母に断った。
「この手紙に書いてある事は、どこからどこまでほんとうです。うそや、気休めや、誇張は、一字もありません。もしそれを疑う人があるなら、私はその人を憎みます、軽蔑します、唾を吐き掛けます。その人よりも私のほうが真相を知っているからです。私は上部の事実以上の真相をここに書いています。それは今私にだけわかっている真相なのです。しかし未来ではだれにでもわからなかえればならない真相なのです。私は決してあなたがたを欺いてはおりません。私があなたがたを安心させるために、わざと欺騙の手紙を書いたのだというものがあったなら、その人は目の明いた盲人です。その人こそうそつきです。どうぞこの手紙を上げる私を信用してください。神様はすでに信用していらっしゃるのですから」

「奥さん、僕は人にいやがられるために生きているんです。わざわざ人のいやがるような事を言ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能(やくざ)です。いくら人から軽蔑されても存分な讎討ができないんです。しかたがないからせめて人にきらわれてでもみようと思うのです。それが僕の志願なのです」
お延の前にまるで別世界に生まれた人の心理状態が描き出された。だれからでも愛されたい、まただれからでも会いされるようにし向けてゆきたい、ことに夫に対しては、ぜひともそうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界じゅうのだれにでも当てはまって、毫ももとらないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。

「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きているほうがいいものなんですよ」
「そうですか」
お延は急に口もとを締めた。
「奥さんのような窮った事のないかたにゃ、まだその意味がわからないでしょうがね」
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまったほうがいいと思います」
小林はなんにも答えなかった。しかし突然言った。
「ありがとう。おかげでこの冬も生きていられます」
彼は立ち上がった。お延も立ち上がった。しかし二人が前後して座敷から縁側へ出ようとするとき、小林はたちまち振り返った。
「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけて人に笑われないようにしないといけませんよ」

こういう場合に彼らは決して愛嬌を売り合わなかった。うれしそうな表情も見せ合わなかった。彼らからいうと、それはむしろ陳腐すぎる社会上の形式に過ぎなかった。それから一種の虚偽に近い努力でもあった。彼らには自分ら兄妹でなくては見られない、また自分ら以外の他人には通用しにくい黙契があった。どうせお互いによく思われよう、よく思われようと意識して、上べの所作さけを人並みに尽くしたところで、今さわ始まらないんだから、いっそ下手にだまし合う手数を省いて、良心にそむかない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間にいつか成立してしまったのである。そうしてその良心にそむかない顔というのは、取りも直さず、愛嬌のない顔という事に過ぎなかった。

「だってマッチ一本だって、大きな家を焼く事もできるじゃないか」
「そのかわり火が移らなければそれまででしょう、幾箱マッチをかかえ込んでいたって。嫂さんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。それとも……」

津田はようやく手に持った小切手を枕もとへ投げ出した。彼は金をほしがる男であった。しかし金を珍重する男ではなかった。使うために金の必要を他人よりよけい痛切に感ずる彼は、その金を軽蔑する点において、お延の言葉を心から肯定するような性質をもっていた。それで彼は黙っていた。しかしそれだからお延に一口の礼も言わなかった。

看護婦が薬を間違えたために患者が死んだのだという嫌疑をかけて、ぜひその看護婦を殴らせろと、医局へ迫った人があったというその話は、津田から見るといかにも滑稽であった。こういう性質の人と正反対に生み付けられた彼は、そこにばからしさ以外の何物をも見いだす事だできなかった。平たく言い直すと、彼は向こうの短所ばかりに気をとられた。そうしてその裏側へ暗に自分の長所を点綴して喜んだ。だから自分の短所には決して思い及ばなかたっと同一の結果に帰着した。

「黙って聞くかい。聞くなら言うがね。僕は今君のごちそうになって、こうしてぱくぱく食ってるフランス料理も、このあいだの晩君をご招待申してしかられたあのきたならしい酒場の酒も、どっちも無差別にうまいくらい味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだろう。しかるに僕はかえってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。いいいかね、その意味が君にわかったかね。考えてみたまえ、君と僕がこの点においてどっちが窮屈で、どっちが自由だか。どっちが幸福で、どっちが束縛をよけい感じているか。どっちが太平でどっちが動揺しているか。僕から見ると、君の腰は始終ぐらついてるよ。度胸がすわってないよ。いやなものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみに追っかけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由がきくためさ。ぜいたくをいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落とされて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」
津田は天から相手を見くびっていた。けれども事実を認めないわけには行かなかった。小林はたしかに彼よりずうずうしくできあがっていた。

思いのほかに浪漫的であった津田は、また思いのほかに着実であった。そうして彼はその両面の対照に気がついていなかった。だから自己の矛盾を苦にする必要はなかった。彼はただ決すればよかった。しかし決するまでには胸の中で一戦争しなければならなかった。――ばかになってもかまわない、いやばかになるのはいやだ、そうだばかになるはずがない。――戦争で一たん片付いたものが、またこういうふうに三段となって、最後まで落ちて来た時、彼は始めて立ち上がれるのである。

ナイフの持ち方、指の運び方、両肘をひざとすれすれにして、長い袂を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、ただ一つ違う所のある点に津田は気がついた。それは彼女の指を飾る美しい二個の宝石であった。もしそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、そのぎらぎらした小さい光ほど、津田と彼女の間を鋭くさえぎるものはなかった。しなやかに動く彼女の手先を見詰めている彼の目は、当時を回想するうっとりした夢の消息のうちに、燦然たる警戒のひらめきを認めなければならなかった。

二人の間に何度も繰り返された過去の光景が、ありありと津田の前に浮き上がった。その時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じていた。だからすべての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。自分にわからない未来を挙げて、彼の上に投げ掛けるように見えた。従って彼女の目は動いても静かであった。何かきこうとするうちに、信と平和の輝きがあった。彼はその輝きを一人で専有する特権をもって生まれて来たような気がした。自分があればこそこの目も存在するのだとさえ思った。
二人はついに離れた。そうしてまた会った。自分を離れた以後の清子に、昔のままの目が、昔と違った意味で、やっぱり存在しているのだと注意されたような心持ちのした時、津田は一種の感慨に打たれた。